「即断しないで独断する - 藤本義一」中公文庫 男の遠吠え から

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「即断しないで独断する - 藤本義一」中公文庫 男の遠吠え から

最近、たてつづけに女流作家の作品を読んだ。
動機は、曽野綾子さんとか富岡多恵子さんと会う機会があったので、女流作家は、現実の事象をどのように分析なさるのであろうか、男とどういう点で違うのだろうかと思って読みはじめたのである。
正直いって、とてもコワ[難漢字]い気がしたのだ。平林たい子さんの短編とか円地文子さんの作品、真杉静枝さんの作品、どれもこれもとてもコワい。おどろおどろの物語である。その底に怨念みたいなものが、ずしーんとあって、上田秋成の怪奇作品などよりもコワかったのだ。
人間を見る目と自分を見る目が、冷徹なのだ。男にないものがある。このコワさは、とても男のもつことの出来ないものだと感じたのだ。
男が女を描く時、これほどずばりと斬ることが出来るだろうかと考えてみたが、出来ない。が、女が女をを描いても、女が男を描いても、また自分自身の闘病記でも、とても厳しいのだ。
そして、共通していえることは、はなはだ断定的な表現が多いのである。
-だ。-であった。-なのだ。
といったのが多い。
-だろう。
というのが少ない。
女流作家の人たちの作品を一度に読む前はそんなに感じなかったけれども、これが一番大きな違いだとわかって、意外な感じがした。
もともと物事の断定は男が主導権を握っているものだと思っていたのだが、これが見事に逆転されてしまったのだ。
たとえば、
-また重苦しい夜明けがくるのだろう。
と男の作家なら書くところだが、
-また重苦しい夜明けがくるのだ。
といったふうになっているのである。
なるほど、これが女流作家なのだなと思ったものだ。
女流作家という呼び方があって、男流作家という呼称がない理由が掴めたような気がした。
が、女流作家の人たちの作品が断定的であるというのと歯切れがいいというのとではちょっと違うようだ。むしろ歯切れの悪さを感じたりするのだ。そして、女流作家のランク付けをすれば、上手な人の作品は断定的であっても独断的ではないということである。はっきりした物を見る目を持っていらっしゃるということであり、下手な人のは独断という癖があると知ったのだった。ひとりよがりである。
たとえば、
-彼は私を好いているのだ。
といった表現である。これが下手な人の文章の中に散らばっている。ちなみに、わが家に送られてくる同人誌の女流作家(?)の作品を読んでみると、奇妙な表現がいくつかあった。
「あんたに、あたしの苦労なんか、逆立ちしたってわからないのよ。永遠にわからないのよ。わかってもらっちゃ困るんだから」
と女が男に叫んでいて、これが夫婦の日常会話なんだから愕[おどろ]かざるを得ないのだ。こんなことを妻からいわれて生活していく夫は、惨[みじ]めというものをとっくに通り越しているとしかいいようがないのである。
しかし、この上手と下手の作品群を往き来しているあいだに、主婦にもこの上手と下手が実在していると思えてきたのだ。
断定するのがプロの主婦であり、独断するのがアマの主婦だとわかってきた。主婦にもプロフェッショナルとアマチュアが、思考とか言語、行動の中に含まれていることを知ったわけである。
現在、結婚詐欺師の小説を書いているので、被害者の証言を集めているが、結婚詐欺に遭う女性のほとんどは、断定以前の独断で墓穴を掘っているのがわかるのである。
この独断は、
「あたしだけは騙されないわ」
という気持がまずはたらき、
「あたしはあまり好きじゃないのに、彼があたしに首ったけよ.....」
という気持ですすみ、
「結局、彼の強引な情に押されてしまったのよ」
という気持で同棲をつづけ、あげくの果ては大騒ぎというケースか、大変に消極的であって断定を下し得ないうちに騙されてしまうケースである。
女性は即断する人が少ないのに、どうして独断してしまうのだろうか。そして、独断と知っていても、それに突きすすんでいくのはどんな心理なのだろうか。
女の独断は女を不幸にするのに、なぜ、女は、独断をもって生きていこうとするのだろうか。