「スターター 太刀川恵 -  村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

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「スターター 太刀川恵 -  村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

帝国ホテルには八基のエレベーターがあるが、宿泊客はチェックインのあとそのエレベーターに乗り自分の部屋に向かってスタートする.....そんな意味合いで、エレベータースタッフは“エレベーターをスタートさせる人”という意味でスターターと呼ばれるようだ。「スターター」を辞書で引くと「競技や列車などの出発合図をする人」「出発係」といった意が出ていて、ドアマンに招き入れられ、ベルマンに荷物をゆだね、フロントでチェックインをした客が、エレベーターに乗っていざ自分の部屋へ向かおうという気分にふさわしい呼称である。
そのエレベーターの前に立ってお客を迎えるさいのスターターの姿勢を、太刀川恵さんが実演してくれた。背筋をのばし、白い手袋をした両手を、おなかの前で左手を上にして組む。足は、真っすぐではなくハの字のような感じで少し斜めにして立つ。そして、お客が来ない場合は、ずっとこの姿勢のまま立っているのだという。まさに、スタンバイの体勢である。
エレベーターに乗るお客があらわれると、「いらっしゃいませ」と声をかけ、エレベーターが来るとその扉を押さえ「上に参ります」と肘を九十度に曲げ指をのばし、手のひらを顔側に向けて指し示す。また下りの場合は、手の指をそろえ斜め下を指し示す。そして、ドアが閉まると同時に、お辞儀をして送るのだが、お辞儀のときは足をそろえる。スターターはこの動作をくり返すことになるというが、英国の宮殿の衛兵のイメージが、ちらりと私の頭をかすめた。両者はまったく別の役割であり、スターターは番人ではなくエレベーターに乗る人の手助けをするのだが、ひとつの場所とセットになった風景として、私の中で唐突にむすびついてしまったのだった。
外国のホテルでは、あまりこのような役は見かけることがなく、ベルマンがフロントから客室までのサポートをしてくれるように思うが、エレベータースタッフは日本特有の領域なのだろうか。その疑問を向けてみると、
「日本でも、いまはいないのではないでしょうか」
という答えが返ってきた。外国のホテルにはなく、旅館から取り入れたシステムでもないスターターを、エレベーター前に配置したのは、きわめて日本人らしいもてなしであるのかもしれない。お客との接触はごく短い時間であり、荷物はベルマンが持っているのだから、主な仕事はエレベーターへの誘導ということになる。
エレベーター内の壁が鏡になっているのだが、そこにはつねに生花の一輪挿しがある。そのしつらえや生花の交換、一日に三回の水やりをするのも、スターターの仕事だ。とかく無味乾燥になりがちなエレベーターの中の一輪の生花は、お客の心を和ませ、いやすにちがいない。もちろん、その生花を一顧だにしない人も多いだろう。造花か否かを触ってためし、「あら、本当の花を使っているのね」と感心する人もある。そんな微妙なサービスに対して、たまに「いつもきれいな花があるわね」と言われることもあるといい、そんなとき、スターターとお客のあいだにかすかなる心の交流が生ずるはずだ。
平日はともかく、土曜日や日曜日にはエレベーター前が混雑する。スターターとしては、一刻も早くお客をエレベーターに乗せてあげたい気持があり、ふつうは
一グループは一エレベーターということにしているが、土、日となるとやや多めに乗ってもらうことになる。そんなときは、閉まりかけのエレベーターの隙間に手を入れ、内側のセンサーを押してドアを開きお客が入るのを待つのだが、閉まるドアに指をはさまれることもあるという。また、閉じかけのエレベーターを走ってまで追いかけることはさけ、かたちとして見苦しくない程度のフォローにとどめるのが基本だという。
何しろ、一日何千人という人が出入りするのだから、定員二十名である八基のエレベーターがすべて満員ということもしばしばだという。逆に、エレベーターを必要とする人が誰もあらわれぬときは、左手を上にしておなかの前で両手を組み、躯を斜めにして足をハの字にするかたちを固めているわけで、いずれにしても見た目の優雅さのわりに、実は体力勝負ということになるようだ。
宿泊客を案内するさいにエレベーターのボタンを押すのはベルマンの仕事だが、車椅子を使用している人、荷物で手がふさがった人、高齢者の場合は、スターターがボタンを押す。また、混雑時であっても、言葉で指示するというのではなく、平等に順序よくご案内できるよう、お客に協力してもらう気持が大前提。顧客の場合などは、宿泊部屋の階数をおぼえているので、事前に階数ボタンを押す。そのとき、お客と一緒にエレベーターへ入って押すことはせず、早めにボタンを押して外で待つかたちにする。
VIP客の場合は、八基のうちの数基を専用エレベーターとし、スターターが一緒に乗って自動ではなく手動でその階まで行く。そんなときは、そのエレベーターは一般のお客に対してはクローズしているというが、スターターにとっては緊張する時間だ。何しろ、各国の首相、大統領、王室関係、日本の皇室関係、首相などの人々とともに密室の中で、躯をうしろに向けてはいるものの、至近距離に立っているのだ。新人のときなどは、その緊張によって上下のボタンをまちがえたこともあった、と太刀川さんは言っていた。

(ここまで)