「甲の得は乙の損 - 邱永漢」中公文庫 金銭読本 から

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「甲の得は乙の損 - 邱永漢」中公文庫 金銭読本 から
今度、モンテーニュの『随想録』が装を改めて出版されたので、大枚を奮発して革張りの特製本を買った。『随想録』については古い思い出があるからである。
昭和二十年三月十日、東京の大空襲のあった直後、私は岡山県の片田舎にある友人の家に疎開してしばらく居候をやったことがあった。居候といっても私は働き者だったから、町人の家に生れた癖にたちまち牛を駆使して畝をおこすコツを覚え、昼間は野良で働き、夜は大学の卒業論文を書き、必ずしも肩身のせまい思いをしないで暮していた。その友人の家の書架に『随想録』があったのである。
今読みかえせばどうだかわからないが、何ら新発見らしい思想はなかったにもかかわらず、私はモンテーニュを愛読した。内容についてはほとんど忘れてしまい、わずかにモンテーニュが友愛を恋愛よりも信頼のおけるものとして重んじたことと、それからここに述べる「甲の得は乙の損」という短い文章が記憶に残っているのみである。
今度の新装版では「一方の得は一方の損」と当世風に改まっているが、その中でモンテーニュは、人の死によって利益をむさぼる葬儀屋を処罰したアテネ人デマデスの裁判が不当であると非難している。彼の非難の根拠は「どんな利得だって他人の損失にならないものはないし、そんな風に考えるとすべての利得を処罰しなければならなくなるから」である。たとえば「商人が繁昌するのはただ若者の浪費のためだし、百姓の繁昌はただ麦が高いためだし、建築家の繁昌は家屋が倒壊するためだし、裁判官の繁昌は喧嘩訴訟のためである。聖職者の名誉と業務だって、我々の死と不徳から生ずるのだ。“医者は健康がきらいで、その友人の健康をさえよろこばない。軍人は自分の町の平和をさえよろこばない”と古代ギリシアの喜劇作者は言った。その他何でもそうである。いや、なお悪いことには、皆さんがそれぞれの心の底をさぐってごらんになるとわかるが、我々の内心の願いは、大部分、他人に損をさせながら生れ且つ育っているのである。そう考えるうちに、ふとわたしは、自然がこの点においても、その一般的方針にそむかないことに気がついた。まったく物理学者は、もろもろの物の出生、成長、繁殖は他のものの変化腐敗であると説いているのである」。
人間と自然界の他の生物との間ならこの法則はあてはまる、と当時の私は考えた。しかし、人間と人間の間では、富の分配が公平に行われるか、もしくは新しい富の創造が行われる場合には必ずしもあてはまらないのではないかとも考えた。人間の善意を信じたがる、いくらか理想に燃えた青年としては、むしろ当然の考え方かも知れない。
けれどもだんだん多くのものを見、経験を積むにつれて、甚だ残念な話だが、どうもモンテーニュの考え方に次第に近づいて行く。まず第一に、富の公平な分配など到底あり得ないことがわかる。簡単な話が、一律に平等な給料はあり得ないが、仮にあれば、怠け者が得をして働き者が損をするし、地位によって差等をつけても、地位そのものが能力に比例するものでない以上、地位のある者が得をすれば、能力が地位をともなわない者は損をする。それなら能力に合わせればよいかというと、もともと能力は千差万別で金銭をもって測定出来る種類のものでないから、これも出来ない相談である。
次に新しい富の創造が行われれば、社会全体に利益をもたらすように見えるけれども、ひとつひとつの例をとると、いずれもこの期待を裏切る。たとえば、豊作は今日のような食糧制度の下では、農家の懐具合をよくするけれども、ヤミ米の下落によって相殺されるし、職人やサラリーマンは一応助かるけれども、ビルマやタイの農民は困ってそれだけ日本製品を買う能力を失うから、たちまち日本の工業製品の輸出に影響してくる。また豊作によって米を食べる人がふえると、パン屋は事業不振におちいってしまう。またたとえば電気釜のような今までになかったものが出来ると、人々は便利にするけれども、従来の釜をつくっていた工場は生産がなりたたなくなるし、ナイロンやレイヨンが現れると、西陣や桐生の絹業者が没落してしまう。ではナイロン業者からとり立てた税金で絹業者を救済すればよいかというと、これでは新しいものを創り出した人々に対して不公平であろう。
かように、すぐれた技術も才能も、常にそれを持たないものの犠牲によってはじめてその真価を発揮出来るものである。今日、平等という観念は、自由という観念とともに、人間生活の至上命令とされているけれども、自由は常に平等を犠牲にし、反対に平等は常に自由を犠牲を要求する。そして、誰かに損をさせなければ、誰かが得をすることもなく、誰かが得をしなければ、世の中に進歩はあり得ないから、社会組織がいかように改変されようとも、この原則にはいささかの変わりもない。
今に始まったことではないが、よく世間には「百万円ためる法」とか「金儲けの秘訣」とかいった書物が出版され、誰しも金儲けには興味があるから、そんな本がよく売れたりする。売れれば、書いた本人は金が儲かるが、仮に本の教えるところに従って養鶏によって百万円ためようと考える人が多くなれば、卵の相場が下落して予想外の損失を招くであろう。また食品株は不景気に対して抵抗力を持っているからそれを買った方がよいと株屋にすすめられて皆が食品株を買えば、食品株の利廻りが低くなり、逆に株価の下落を招くであろう。そして、全く予期に反して、船株が三倍に騰貴するかも知れないのである。では「経済の事情に明るくない素人は、経済の事情に明るい玄人に任せれば間違いない」という宣伝に乗って投資信託に金を投ずれば大丈夫かというと、玄人だって経済界に対して確固たる見通しをもっているわけではなく、玄人中の玄人たる大証券の社長が自殺した例さえあるのだから、これとてもあまりあてにならない。
こんなことをいうと、小金をもったばかりに途方に暮れてしまう方があるかも知れないが、私のいわんとするところは、「甲の得は乙の損」だから、金儲けをするなら皆と同じことをやらない方がよいということ、もしくは人の裏をかく必要があるということである。一般に金儲けは、その安全性においていくらか優れている場合もあるが、馬券を買う要領とそれほど大差はないものである。