2/2「ポスト大衆社会論の構図 - 上野千鶴子」ちくま学芸文庫 〈私〉探しゲーム(欲望私民社会論) から

f:id:nprtheeconomistworld:20200401082141j:plain


2/2「ポスト大衆社会論の構図 - 上野千鶴子ちくま学芸文庫 〈私〉探しゲーム(欲望私民社会論) から
 
第三は、「大衆社会」はほんとうに変わった、とするものである。そのうちの一つが一種の発展段階説だ。高度成長期までは消費のレベルが低く、人々は「人なみ化」をめざして消費財のスタンダード・パッケージをそろえるのにせいいっぱいだった。「三種の神器」から三Cという言葉は、誰もか「隣と同じ」ものを欲しがった時代を象徴している。ところが基礎消費財がひととおり行きわたったあと消費が高度化してくると「隣とちがう」ものに対する差別化要求が生まれてくる。したがって、「消費者の多様化」は付加価値の高いぜいたく品や「余裕財」のレベルで生じ、必需品や基本財ではあいかわらずマス・マーケットは健在であるという説が出てくる。この議論だと、消費のレベルさえずらせば、「大衆・小衆」ともに健在である、という何となくケンカ両成敗みたいな意見になる。
消費の高級化にともなう差別化の進行、という考え方は、一種の大衆社会論の発展段階説である。この考え方では、基本的に「大衆社会は終わって」いない。それはただ、新しい水準に到達しただけである。その中で「消費者」はたしかに「変貌」している。つまり「個性化」「多様化」しているのである。
平準化の中の差異化、横ナラビ差別化の中のさまざまな「差異の戯れ」 - ポストモダニストが聞いたらいかにも喜びそうなこの爛熟大衆消費社会論を、私も一時支持していた。
ところが小沢雅子さんは『新「階層消費」の時代』(日本経済新聞社、一九八五年)の中で、この「横ナラビ差別化」説に挑戦する。
「個性的高級化説の方が強力であれば.....依然として大衆消費時代が続き、そのなかでライフ・スタイルが多様化している、と説明できる。.....一方、階層分化説の方が強力であれば、大衆消費時代は終了し、.....一種の階層消費時代に転換しつつある、という解釈が成立する。」(小沢、前掲書、二一一頁)
小沢さんは「消費者は変わった」という事実を綿密なデータによってあとづけながら「個性化」説を否定し、「階層分化」説を支持する。つまり、大衆社会はたしかに変わった、が、それは平準化の時代が終わったことを意味する。「大衆」に代わって登場したのは、たんなる「小衆」ではなく、実は「階層」だった、と彼女はいうのである。
そう言えば、渡辺和博さんとタラコプロダクションの『金魂巻』(主婦の友社、一九八四年)がひきおこした丸金、丸ビブームや、森伸之さんの『東京女子高制服図鑑』(弓立社、一九八五年)への関心、昨今の「お嬢さま」ブームなどは、「身分ちがい」への社会的関心の高まりを表わしているように見える。田中康夫さんは、みんながリッチになったから「お嬢さま」ごっこなどやって差異を戯れてるだけさ、と言うが、ほんとにそうだろうか。
たとえば制服は、ファッションのタコツボ化現象とはちがう。コムデの服なら誰でもお金さえ出せば買える(商品の前の万人の平等!)が、制服はその気になりさえすれば誰にでも着れる、という手合いのものではない。家柄、教育歴、親の経済力やポリシーなどがあいまって、あの子はフェリスに、この子は東洋英和に送りこまれる。「お嬢さま」もそうだ。誰でもインゲボルグの服を着れば一見「お嬢さま」風には見えるが、ほんものの「お嬢さま」には、本人の意志と能力でなれたりはしない。「お嬢さま」にはどうしたらなれるか? - 「お嬢さま」になるには丸金の家に生まれてくるしかない。つまり差はオヤの代からついている、のである。
小沢さんの説は、これまでの資産形成の差が現在の可処分所得に響いてくるというものだが、この差は親の代から子の代になってますます開いてくる。「大衆社会」というのは「大衆民主主義社会」であって、誰でもその気になれば隣の人と同じになれます、という平準化の原理が、競争社会をあおってきた。一九世紀のトックヴィルの洞察以来、民主主義というものは不可避的に敗者のルサンチマンを生むと相場が決まっているが、しかし現代の競争社会は、ほんとうにルサンチマンを生んでいるだろうか。
人は、自分が到達できるものしかうらやまない。差が開きすぎると、もはや羨望の対象にもならない。身分制社会の中では、百姓は武士を羨んだりしなかったものだ。逆に言えば、百姓が武士をうらやみ始めた時から「近代」は始まった。しかし、現在、民主的な競争社会の典型であるはずの学校を支配しているのは、偏差値身分制の中の「分相応」意識だ。子どもたちは小さい時から序列に慣らされているように見える。上を見れば何人、下を見れば何人、全体の中に置かれた自分の相対的な位置を、くり返しくり返し思い知らされる。彼らは自分より序列の低い者をバカにするが、だからと言って、自分より序列の上の者を必ずしもうらやまない。「あいつトーダイだって。トーゼンだよな。オレたちとはちがうもんな」と納得する学生の心理には、背伸びしてもしょせんは手の届かないものは、はなから望まないという「分相応」意識がある。しかも教育はこれまで大衆社会の平準化リクルート機関だったが、今日では偏差値序列と教育投資のかけ方とが相関していることぐらい、誰でも知っている事実だ。
ダニエル・ベルは今から十年以上も前に『脱工業社会の到来』(内田忠夫訳、ダイヤモンド社、一九七五年)の中で、ポスト産業社会は「新しい階級社会」だと予言している。「大衆社会の変貌」は、近代=産業社会という時代が終わったことを示しているのだろうか。だとしたら、「みんな一緒」になれるという平準化の夢を見た「大衆の時代」とは、つかのまの歴史のうたかただったということになる。情報や空間のような公開性や公共性が前提されてきた資源についてさえ、今井賢一さんの言う「クラブ財」(特定の閉じられたサークルの人々にだけ開かれた財)という概念が成り立つ時代である。このままで行くと、カルチャー、テイスト、交際圏、通婚圏等々がまったく重なり合わない集団が、いくつもセグメントされてくる可能性がある。
ところでこの「ポスト大衆社会」はいい時代なのであろうか?ある意味では、攻撃性と競争の少ない「平和な時代」だとは言える。今西錦司さんの言う「棲み分け」型共存社会に似ている。この「平和」が、安定か抑圧かはべつ問題だ。
いずれにしても大衆社会の変貌に直面して、社会科学者にはその変容をとらえる有効な枠組が要請されているし、他方で「大衆」には、「どの大衆」になるのかを選ばなければならない、分解と再編の時代が訪れているのだ。