「抜けきれぬ餓鬼根性 - 野坂昭如」中公文庫 風狂の思想 から

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「抜けきれぬ餓鬼根性 - 野坂昭如」中公文庫 風狂の思想 から

以前、「京の着倒れ」「浪花の食い倒れ」という言葉があった。衣裳道楽、食い道楽に身をうちこんで、そのためには家業傾いたって、知ったこっちゃないというわけだが、なんとまあすさまじい意気であろうかと、ぼくなどつくづく感心する。着たり食ったりは、さしあたって食欲を充たし、また、寒さしのげればそれでいいと、ぼくは考えていて、これは決してこれみよがしにいうのではなく、そういった楽しみ、倒れるまで美味を求めるという面が、まったく欠如しているのだ。
ほぼ同じ年齢に、小田実開高健小松左京がいるけれども、彼等は実によく食べる。食べるが決して食い倒れという、ややみやびやかな色合いはうすくて、どうも、今食っておかなきゃ何時餌にありつけるかわからないというような、切端[せつぱ]つまった印象が強い。小田実とつきあう編集者は、そのすさまじい食いっぷりにまきこまれて、みな胃をこわすそうだし、また、外国でさまざまな美味あじわう機会の多い開高は、ちょいとした食通ぶりを披露し、京都で顔の広い小松も、なんのなにがしと由緒ある料理につき、蘊蓄を傾ける。それぞれに、今や食のほそった現代において、貴重な存在であって、その食いっぷり見ているだけで楽しいが、決して食い倒れではない。
ぼく自身についていうと、まずレストランで、さっぱり見当のつかぬメニューながめている時間というものは、かなり苦痛であって、たいていはカレーライスか、あるいはビフテキに、エィャッときめてしまう。これではあまりにつまらないと考え、すると、ひたすら高価なものを頼む。たとえばフォアグラとか、キャビアを、べつだんその味がわかるでも好きなのでない、義務の如く注文し、だからひとかけら千円くらいの、珍味を舌にのせたところで、どういうわけでもなく、今、自分は、フォアグラを食べつつあるのだと、必死にいいきかせて、といって、フォアグラを食べることの自分を、うれしがってるわけじゃないし、まあ時々、さらに将来になって、どういう立場にいるにしろ、「そうそう俺も昔、レストランでフォアグラ食べたことがあったっけ」と、考えるのではないかと、ある予感めいたものを思うことはある。
地方へいけば、ハンバーグ、ライスカレー専門であって、これは、自分で好きなようにソースなり醤油なりジャブジャブぶっかけ、味ととのえるといえばオーバーだが、わが好みを生かせるからであって、何が苦手といって、その土地の名物料理ほどいやなものはない。大皿いっぱいに生きづくりというのかなんだか、鯛が眼をむいていたり、豪華な器に鮎がしょんぼり横たわっているのをみると、まったく箸をつける気がしないし、洋食のフルコースというのも、食べられぬ。
ぼくは、飯のかわりにウイスキーを飲んでいるとよくいわれるけど、これで一人でいる時には、お茶漬けやらラーメンやら、ばかみたいに食べているのであって、人と会う時に、まさか対談や座談会で、ライスカレーしゃくりつつしゃべるわけにはいかないから、やむを得ずウイスキーなど飲んでいるのだ。そして、相手が料理屋なりレストランの自慢料理を、「うん、これはうまい」とか、「これはシュンではないね」などというのを、猜疑心にみちてながめる。先方がはるか年長ならばそうでもないけれど、また育ちがよければ納得するのだが、いずれこれまで食うや食わずの連中の、鮎の塩焼きに、舌つづみ打つ姿など、どうも信じがたいのだ。そんなものより、ソースぶっかけたライスカレーの方がよくはないのかと、本心をたずねたくなる。
戦前、すでに大人だった方は、けっこう、当時のうまいものを味わっていて、料理の味についてのいくらかの基礎ができているだろう。しかし、ぼくくらいの年齢の人間といったら、まあろくなものは食べなかったはずで、しかも、それは味よりも、量であり、そして常にいつまた食べられるだろうかと、怯えつつの食事が長らくつづいたにちがいない。
うまいものを口にするチャンスがなかったということよりも、この、食事についての偏見、金を出せば食いものにありつけるという実感のないまま、少年多感なる時代をすごしたことが、ぼくなどを、味痴というか、うまいまずいあげつらうことを拒否させているのではないか。おいしいということばを発する時、いいようのない恥しさを感じるので、そんなことをいえた義理かと思ってしまう。だから、楽しく語り合いながら、ゆったり食事をするということがまったくできない。こっちの好みのラーメンやライスカレーを食べる時は、ただもう、だまりこくって、前後不覚に口にほうりこみ、米粒一つ汁一滴あまさずにおさめて、まず早食いの点では人に劣らない。まさにわきめもふらずに食べて、食べ終った後、必ずもういっぱい注文するかなと、考え、さすがに自制するけれど、ひどく中途半端な気持というか、満腹感はない。ああよくくった、うまかった式の、満ち足りた気分にはいたらないのだ。
食ってる時だけがしあわせで、食べ終ると不安になるというのは、べつにぼくだけのことではないだろうが、また考えると、どうもこの食欲というえたいの知れないものに、ぼくは復讐しているような気味もある。かつて、あれほど食いたい食いたいとねがっていて、そのねがいをかなえてもらえなかった。だからといって、食物にあたるのは筋ちがいかも知れないが、今、妙にきらびやかな姿で、さあ食べて下さいといわれたって、どっこい食ってやるものかと、憎しみを感じているゆうな面がある。これみよがしに料理が媚態しめせばしめすほど、そっぽむきたい気持が起るのである。
多分、食い倒れなどというのは、先祖代々うまいものを食べて、もはや食べる楽しみとか、食欲とかの実感のうすれた連中が、食べるという行為とはかけはなれた、むしろそのことに自分の存在をかけるような気持で、天下の珍味を求め、高いから少いからこそうまいのであると、自分にいいきかせつつ、家業かたむくのもいとわなかったのだろう。こういった類いと、小生の如く、一種の餓鬼根性からまだ抜けないものと、どっちが幸せかわからないけれど、こっちはまだ先があるから希望がもてる。生命長らえていれば、ある日こつぜんとして、一匹の鮎の姿に全財産うちこんでも、あるいは明日死んでもいいから口にしたいと考えるかも知れない。メニューやショウウインドウをながめ、それだけで至福の境地味わうことができるかも知れぬ。もっとも、それより前に栄養失調で「食わず倒れ」になる可能性が大きいけれど。