1/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から

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1/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から
 
人間が死を恐れるのは、生物学的な意味での生命から多かれ少なかれ遊離したところに自己の存在を築いているからであると思う。われわれが恐れているのは自己の終焉である。もちろん、生物学的な意味での死を恐れていることは確かであるが、それは、生命が自己の存在の基盤であるかぎりにおいてであって、それ以上のものではない。たとえば、ある時点で植物人間になり、それから数年後に死ぬとした場合、われわれが恐れるのは、明らかに植物人間になる時点であろう。また、人間は自分の信じているある価値、すなわち自己の存在がかかっているある価値を守るために生命を投げ出すこともあるのだから、生命よりは自己の方がより重要であり、その喪失がより恐ろしいのである。たしかにそういう人間はまれであるが、それは、自己の存在を構成している全体のなかで、ある価値の占める部分が、自分の生命の占める部分より大きい人間がまれであり、たいていの人間は自分の生命を自己の存在のもっとも重要な部分としているからに過ぎない。
したがって、自己というものをもたなかったとすれば、死の恐怖はあり得ないであろう。その意味において、生物学的生命そのものを生きている動物には死の恐怖はないと考えられる。動物の個体的生命は、より大きな種族の生命の一環であり、個の生命と類の生命とのあいだに乖離はない。個体の死は全体のごく小さな一部が欠けたということに過ぎず、それは、再生産(生殖)によって完全に補われる。生物学的生命は生殖細胞を介して世代から世代へと伝えられていくのだから、不死であるともいえる。
しかし、われわれ人間は、子どもをつくって次の世代へ生命を伝えたとしても、それをもって死の恐怖から解放されるわけではない。子どもの存在が死の恐怖をいくらか軽減するとしても、それは、われわれが子どもを自己の存在の延長で見ているかぎりにおいてでしかなく、そして、子どもの存在は、われわれの生命の永続的連鎖は保証し得ても、われわれの自己の延長を自動的に保証するものではない。子どもは子どもの自己を築くであろう。われわれの築いた自己と子どもの築く自己とは、本来別のものであり、そのあいだに、動物の親の生命と子どもの生命とがつながっているという意味でのつながりはない。自己はわれわれ一代かぎりで完全に跡かたもなく消滅する。要するに、自己というものを築いたかぎりにおいて、われわれは必然的に孤独であり、死を恐れざるを得ない。
では、なぜそのような厄介なものを築くのであろうか。それは人間が生物学的生命そのものを生きることができなくなったからである。人間の本能はこわれ、その現実適応の機能は失われた。人間は自然から切り離され、現実を見失った。自然のなかに人間の居場所はない。人間は、切り離された自然の代用品として文化を、こわれた本能の代用品として何らかの行動規準をもたねばならなかった。自己とはその行動規準の拠点として必要であった。自己の崩壊がどのような結果をもたらすかは、精神病が如実に示す通りである。人間は、いかなる感覚、感情、欲望も、いかなる義務、責任も、それを自己のものと感じ、認めるかぎりにおいてしか表現できないし、行動化できない。人間にとって、自己とは世界の中心であり、要である。自己が崩壊すれば、世界も崩壊する。
自己と自分の生物学的生命とは重ならない。自分の生物学的生命のうち、自己化されるのは、いいかえれば自己を構成する材料として用いられるのは、その一部に過ぎない。つまり、自己は自分の生物学的生命のほんの一部しか代表しておらず、したがって、国民のほんの一部の者の利益しか代表していない政府が不安定であると同じ意味において、必然的に不安定である。また、自分の生物学的生命からかけ離れたところに自己を築くことも可能である。たとえば、ある理想がすべての価値である熱狂的な理想主義者にとっては、その理想が彼の自己であって、そのために生命を捨てるのは何でもない。男の肉体をもって生まれながら、女としての自己を形成し、あとから「間違っている」肉体のほうを手術して「女」になる者もいる。自己と自分の生物学的生命とか完全に一致するということはあり得ない。自己の生物学的生命のみを自己化していて(と言っても、そのすべてを自己化することはできないが)、それ以外のところに自己を見出さない者をエゴイストと呼ぶわけであるが、エゴイストにせよ、「人間性」にもとづいているのではなく、自己をそのように狭く築いたというな過ぎない。
では、どのようなものが自己化されるかと言えば、それは、他者との人間関係において(まずはじめは、幼児期における親との人間関係において)、他者によって自己と認められたものである。われわれの自己とは、他者がわれわれの自己と認めてくれるところのものである。決してわれわれの生物学的生命のなかからあるとき自己なる実体が、種子から芽が出てくるような具合に浮かびあがってくるのではない。われわれの自己の存在は他者によって支えられている。わたしをわたしと認めてくれる他者が一人もいなくなれば、わたしはわたしでなくなる。もちろん、他者がわれわれの自己を認めても、われわれがそう認めなければ、われわれの自己とはならない。いわば、自己とは、われわれと他者との共同幻想である。自己なる実体はどこにもない。たとえは、わたしに音楽的才能があるというとき、それをわたしのなかに音楽的才能なる実体がが存在していると解してはならない。それは、わたしに可能なある種の行動を他者が音楽的才能と認め、わたしもそう認めているということに過ぎない(実際には、わたしに音楽的才能があると認めてくれる他者は一人もおらず、自分でも音痴だと思っているが、このわたしでも、もし猛烈な音痴ばかり揃っている集団のなかにいたとしたら、みんなから音楽の天才だと思われ、自分でもそう思い込んでいるかもしれない。そのときには、わたしに音楽的才能が存在しているのである)。金儲けの才能もまた然りである。金儲けの天才の脳をどれほど精密に調べようが、その才能の実体的基盤が見つかるはずもない。わたしは岸田秀という名で、ある大学の教員をやっているが、わたしがそういう存在であることを支える根拠は、ひとえに他者との関係にあるのであって、わたしの生物学的生命のどこを探しても存在しない。自己とは、実体ではなく“かたち”であり、しかも、人びとの共同幻想のなかにのみ描かれている“かたち”である。この意味においてもまた自己は不安定であり、絶えず消滅の危険にさらされている。しかし、われわれにとって、われわれ自身とはこの夢まぼろしのごとくはかない自己がすべてである。ゆえに、われは死を恐れる。