3/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から

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3/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から
 
実際、死の恐怖を考慮に入れず、人間を単なる合理的、利己的存在と見る経済学的人間像、あるいは個体保存本能と種族保存本能に駆り立てられていると見る生物学的人間像にもとづくいかなる理論も、人間とその営為を説明できないであろう。人間の欲望にはつねに死の影がつきまとっている。人間の欲望はつねにある意味において死の恐怖からの逃走である。何ら現実的基礎をもたず、完全な虚無へ、底なしの深淵へ転落する危険にさらされている不安定な自己の存在を何とかこの世界につなぎとめようとするあがきである。だからこそ、人間の欲望を、物欲、金銭欲、名誉欲、権力欲、攻撃欲などを単に個体保存本能の発現と見る理論はナンセンスにゆき着いてしまうのである。人間の欲望が満足の限度を知らないのは、恐怖からの逃走だからである。恐怖から必死に逃走している者には、これで充分だとか、このあたりでやめておこうというようなゆとりはない。不安定な自己の基礎を主として何に求めるかは、民族によって、個人によって多かれ少なかれ異なっているであろう。ヨーロッパに資本主義が発達したのは、ヨーロッパ人においては、物質的・金銭的利益にその基盤を求めようとする傾向が強かったからであろう。武勇と名誉にその基盤を求める傾向が強い民族もいる。しかし、民族の場合にせよ、個人の場合にせよ、もともと自己は幻想であり、その安定した基盤なんかはありっこないのだから、そのような基盤を求めようとする試みが最終的目標を達成することは決してない。財産にその基盤を求めようとした者は、どれほど財産を蓄えようが決して満足できず、さらに財産をふやしたい欲望に駆り立てられる。事業にそれを求めた者は、どこまでも事業を拡張したいであろう。彼がもしチェーン組織の会社をつくったとすれば、全国津々浦々にくまなくチェーン店ができるまでは落ち着かないあろう。権力にそれを求めた者は、あくなき権力欲のとりことなる。彼は、もし可能ならば、自分の自己に他のすべての者の自己を従属させたいであろう。そして、自分を始祖とする不滅の帝国を築きたいであろう。
攻撃欲は死の衝動が外側に向かったものであるとするフロイド理論に反対して、ある精神分析者たちは、他を攻撃するのは自分を守るためであり、したがって、個体保存本能、生の衝動に発するものであって、それを逆に死の衝動に由来するとするのはおかしい、人間の攻撃欲がときおり、個体保存の目的のために必要な限度を越えて過剰なものとなるのは、かつて抑えつけられた攻撃欲が蓄積されているからに過ぎないと主張する。わたしも、死の衝動の存在を認めず、攻撃欲は個体保存本能に発するとする点では彼らと見解を同じくするが、ただ、わたしに言わせれば、彼らは、個体保存本能の対象たる保存されるべき個体が、動物の場合と人間の場合とでは本質的に異なることを忘れている。すでに繰り返し述べたように、動物の場合は自分の現実の生命の保存が目的だが、人間の場合は幻想としての自己の保存、いやむしろ安定が問題なのだ。人間の攻撃欲がしばしば必要以上に過剰となるのは、かつて抑えつけられた攻撃欲が蓄積されているからというより、物欲や権力欲の場合と同じく、死の恐怖に駆り立てられているからである。いささかも生命をおびやかされたわけではないのに、われわれが侮辱をがまんできないのは、侮辱がわれわれの自己を危険にさらすからである。現実的基盤をもたない自己は、自尊の幻想に支えられており、幻想に支えられているがゆえに、そこを崩されると、自己そのものが虚無に転落してしまうのである。それは、生物学的な意味での死ではなくとも自己の死であり、それゆえにわれわれは、死の恐怖に駆り立てられて、ときには生物学的生命の危険を冒してまで、侮辱に対して反撃する。そして、そのような反撃は、つねに、個体保存の目的のために必要な限度を越えた過剰なものとなるであろう。攻撃欲が死の衝動に発するとした点でわたしはフロイドに同意しないが、いずれにせよ、人間の攻撃欲に死の影を見た彼の洞察は正しかったと思う。動物は、食料として必要だとか身に危険が迫った場合しか他の動物を殺さないが、人間だけが、現実的に有益な目的に役立たなくとも憎悪から他の人間を殺すことができるのは、人間の攻撃性が死の恐怖に発しているからだと思う。すなわち、他の人間を殺し、死を他の人間へと移すことによって、自分は死を免れようとするのであろう。
人はパンのみに生くるにあらずと言われるが、まさに、生物学的生命から遊離した自己なるものを築いた人間はパンのみで生きることはできない。しかし、もしパンのみで生きることのできる人間がいたとしたら、われわれよりははるかに平和的で、はた迷惑でない存在であろう。
物欲にせよ、攻撃欲にせよ、際限のない欲望に囚われ、駆り立てられている状態から脱出する道は一つしかない。それは、われわれが、われわれの自己が幻想であることを知ることである。そして、死を直視してその恐怖に耐えることである。それは不可能かも知れない。しかし、ほかに道があるであろうか。