「吉村昭-懸命なる自然死 - 大河内昭爾」文春文庫 見事な死 から

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吉村昭-懸命なる自然死 - 大河内昭爾」文春文庫 見事な死 から
 
胃の全摘出手術のため大学病院に入院することとなり、吉村昭『日本医家伝』という新装版の文庫を貰い受けに吉村家を訪問した。たまたまその文庫の巻末解説を私が執筆していて、手術担当のスタッフへの名刺代わりに持参したいと思ったのである。手持ちが三冊しかないというのに、二冊にあの几帳面な書体で担当医の名前を書き、吉村昭と署名してくれた。その時ひどい声のかすれを気づかいながらも、本人が喉をやられたと口にするので疑いもせず、また私と同時に入院することも知らなかった。平成十七年舌癌、その後膵臓にも転移がわかり、翌年二月手術した。一旦元気になって家族と外出してはチョコレートパフェや珈琲など、およそ吉村昭らしくない嗜好をみせたという。それは内臓摘出後の血糖値の低下からくる甘味補給であろうが、経験的にその状況がよくわかるだけに、いまさら吉村昭に懐かしさをおぼえる。入院一カ月後の七月二十六日に私は退院した。同日ほぼ同時刻に吉村昭も退院したという。電話で夫人で作家の津村節子に当方の退院を知らせた。入院も退院も周囲に秘匿するよう強く指示された津村さんは、本人が脇にいてその退院を口に出来なかったことを後日釈明していた。何故あんなに病気をかくそうとしたか、それにこだわったか、周囲に迷惑をかけたくたいという吉村流儀にせよ、津村さんもしきりにいぶかっていた。七月三十一日吉村昭は亡くなった。
死は三日間伏せてくれ、なるべく早く焼骨して死顔は家族以外に見せるなという遺言だった。延命治療はしないと明記していた。その遺書も再三開封して推敲したというところが、いかにも吉村流である。遺作となった「死顔」の校正の筆を死の間際まで止めなかった。
「死顔」には父の死を兄に知らせようと走っていた荒川の長い橋の上から見た引き潮の光景が印象的に描かれている。川が異常に波立ち、そこに月の光があたって帯のように見えた。吉村昭の死の時刻の午前二時三十八分は暦の上でもやはり引き潮の時間だった。父と同じように引き潮にさらわれていったのだと、津村さんは語った。
校正することが唯一、死に直面した作家の生甲斐のようだったという。職業作家としての自分も目を通したのだから安心しなさいと津村さんがいくらなだめても、病床で校正をくり返した。極細字でしたためた原稿用紙に、さらに丹念に書き込む習性だった。生前私が貰い受けた六枚の原稿(初出、「緑色の斑紋」)も清書された時は二十六枚強の作品になった。
私の周辺の人たちに大河内の葬儀委員長は自分がつとめるんだとよく口にしていたという。その頃は大学病院での検査結果に自信をもっていた。しかし一旦死を自覚すると心の処理はあざやかだったというしかない。
吉村昭のストイックさは時に自虐的にすらみえた。〈矜持ある人生〉というタイトルで吉村昭をしめくくった雑誌の特集があったが、まさにうってつけの主題というべきであろう。
絶筆「死顔」には、幕末の蘭方医佐藤泰然が自らの死期の近いことを知って高額な医薬品を拒み、食物を断って死を迎えたことをしたためている。「いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ」としるしている。私はそこに吉村昭を重ねてみる。「その死を理想と思いはするが、医学の門外漢である私は、死が近づいているか否か判断のしようがなく、それは不可能である。泰然の死は、医学者故に許される一種の自殺と言えるが、賢明な自然死であることに変りはない」としたためた。自分の死の判断は不可能といいながら、吉村昭は自分の死を実際には的確にみつめていた。自ら点滴の管を引抜いたという吉村昭のその瞬間の心情を、私は気持ちのあわ立つ思いでいつもふり返る。
仰天した娘さんがなんとか管をつないだら、津村さんには聞きとれなかったが、娘さんに「もう死ぬ」と言ったという。津村さんは看護師に「もうこのままにしてください。もういいです」といい、娘さんめ「お母さん、もういいよね」と言って泣いたと津村さんはしるしている。