「「ピーナツのなぞ」を追って - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

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「「ピーナツのなぞ」を追って - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から
 
 
「ナットウは糸を引くが、ピーナツはあとを引く」という名言がある。(さっき、ぼくが作ったんだけどね)
ピーナツをなんとなく食べ始めて止まらなくなった、という経験はだれでもあると思う。
タツでテレビを見ていて、ふと目の前にピーナツの袋があるのを発見する。
何気なく手を出し、「ほんの二、三粒」のつもりで食べ始めると、これが止まらなくなる。二、三粒どこらか、ふと気がつくと、すでに三十粒ほど食べていて、目の前に大量のカラや皮が散乱していてびっくりすることがある。
ピーナツは食べているうちにはずみがついてくる。次第に熱中、没頭、興奮してきて、なにかしらこう、狂おしいような気持ちになっていくのである。
一粒口に入れ、それがまだ口の中にあるのに、手はすでに次の一粒を無意識につかんでおり、それを口の中にせわしなく放りこむと、また手が次の一粒をつかんでいる。
その速度も次第に速くなっていき、口の咀嚼速度より手の動きのほうが速くなり、口の中にはピーナツがどんどんたまる。かくしてはならじと、咀嚼速度を速めると、手の動きもそれにつられて速くなり、互いに競争みたいなことになって、視線はいつのまにか中空を漂い、アゴはあがり、必死の様相を呈してくる。
ピーナツを必死に食べなければならない事情は何もないのだが、なぜかそうなる。
これがカラつきのピーナツであった場合は、コタツ板一面にカラおよび皮が散乱し、コタツ板からこぼれ落ち、「ああ、これを何とかしなくちゃ」と思い、その思いとあたり一面の様相が一層惑乱を誘い、目は血走り、口中のピーナツをメチャメチャに噛み砕いてだんだんアゴが痛くなってくる。それでも手は絶え間なく袋の中のピーナツにのび、「ああ、こうして自分はダメになっていくのだ」などとヘンなことを考えたりする。
ダイエットをしている人は、これに「ピーナツはカロリーが高いから、このへんでやめなくては」の思いが加わり、逆上、錯乱、自己嫌悪、さまざま入り混じり気も狂わんばかりになる。
それでもようやく何とか冷静さを取り戻し、「ハイッ。おしまいッ」と声に出して自らを励ますようにいって、とりあえず、胸元などの皮を振り払う。
ピーナツの袋を閉じ、輪ゴムで厳重に縛って、二度と手を出せないようにわざと遠くへ放り投げる。疲れきって横になる。しかし、しばらくすると、ムックリ起きあがり、放り投げたところに這って行って取り戻してくる。
厳重に縛っておいた袋を苦心してほどき、「こんどは本当に二、三粒だけ」と言うわけしながら一粒口に入れると、あとは一瀉[いつしや]千里、たちまち三十粒となる。
三十粒でふと我に返り、こんどは「二度と手を出さないように」わざわざ立ちあがって行って、手の届かないタナの上に放りあげたりする。
「やれやれ」などといってコタツに戻り横になるが、またしばらくするとムックリ起きあがり、物置に行って踏み台を持ってきて、タナの上のホコリにまみれたピーナツの袋を引きずりおろしたりする人もいる。(ぼくのことだけどね)
この魔力は一体何であろうか。
「だってピーナツって、煎った豆独特の香ばしさがあっておいしいもの」
という意見もあるだろう。
むろん、それもある。しかし、それだけだろうか。
「堅く締まった豆を、カリッと噛み砕く快感」をあげる人もいよう。
むろん、それもある。しかし、それだけだろうか。
それだけのことで、人はピーナツに狂乱するであろうか。
われわれ取材班は、ピーナツあと引きのナゾを追って、ただちに取材活動を開始した。(取材班といってもぼく一人だけどね)
ただちに取材先におもむくと(スーパー)、カラつきとハダカの二袋を購入して戻ってきた。取材費は三百九十八円であった。
まずカラつきのほうを試してみる。
そうして、まずわかったことは、「手作業との関連」である。
あとを引く食品は、ピーナツのほかに、天津甘栗、「やめられないとまらない」のカッパエビセンなどがあるが、いずれも手作業がからんだ食品である。
いずれも一つずつ、手でつまんで食べる。そしてこれらに共通していることは、それぞれの一個が、口中に入れる食品の単位としては極めて小さいということである。
だから、連続的に食べていながら、口の中は常に口さみしい状態にある。
口さみしいので次の一個を急ぐ。
カラつきの場合は、次を急いでいるのに、その間になすべきことがあまりに多い。指に力を入れてカラを割り、指を突っこみ、押し開き、豆をつまみ出し、親指と人さし指でよじって皮をむき、払い落とし、ようやく口中に投入する。
投入したとたん、口の中のほうは次を催促する。したがって当人はもどかしくあせる。もどかしくあせりつつ、ようやくまた二粒ほどを手中にし、あわただしく口中に放りこむと、口はまた次を催促する。当人はあせりにあせり、次第にヒナ鳥に餌を運ぶ親鳥のような心境になっていく。これが、「狂乱に至る病」の最大の原因ではないだろうか。
ハダカとカラつきを比べれば、カラつきのほうがはるかに手間ひまがかかる。
よく考えてみれば、要らぬ作業ではないか。カラをむいてあったほうが、はるかに食べやすいはずだ。
人々がすべてそう考えるならば、カラつきピーナツはとうの昔に絶滅しているはずである。しかしスーパーでは、カラつきとハダカを並べて売っている。これはなぜであろうか。(どうもなんだか、次々にいろんな問題が派生してくるが)
われわれ取材班は、さまざまな討議をくり返した結果、「手作業を懐かしがっている」という結論に達したのである。
いま、道具は機械化され効率化され、最終的には押しボタン化されている。
手はすっかりヒマになった。
手は“窓際”に押しやられた。
かつては有能なビジネスマンであった手は、いま、窓際にさみしくすわっている。その昔、鉛筆をナイフで削れた手、あやとりなどという微妙で細やかな動きをなしえた手、コヨリなども難なく作りあげた手は、その昔の動きを懐かしがっているのである。
そうして、ようやくめぐりあった仕事、すなわちピーナツのカラ割りを、大喜びで受けとめているのである。