「さっさと満足して死になさい - 中島義道」新潮文庫 私の嫌いな10の人びと から

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「さっさと満足して死になさい - 中島義道新潮文庫 私の嫌いな10の人びと から
 

「わが人生に悔いはない」と思っている人びとへ。ああ、そう思いたければそう思いなさい!そう思って、さっさと死んでいくがいい!
誰でもちょっと考えてみれば、人生に悔いがないことなど、あろうはずがないのに、よっぽどそう思い込みたいのでしょうねえ。そして、私の実感では、こういう人の人生って、じつはそれほど順風満帆ではなかった。ピカソカラヤン、あるいは松下幸之助小澤征爾が言うのなら、まあわからないこともないが、どう取り立てて輝きのない人生を送ってきた人が、老境に入るとしきりにこう言いたがる。右に挙げたような社会的成功者は、周囲の者がそう言わせたくてやきもきしても、なかなかこうは言わないものです。
さらに穿[うが]ってみると、過酷なほどの人生を送ってきた人がこういうせりふを吐くとぴたりと決まる。父親に逃げられ、母親に捨てられ、孤児院で育ち、ぐれて警察のご厄介にもたびたびなって、何度も豚箱に入れられた。その後ホームレス同然の生活を強いられてきたが、やっと結婚して子供もでき、ラーメン屋の仕事も軌道に乗ってきたと思ったら、ガンに罹[かか]って死ぬのか!
彼は涙を流して自分の人生を思い出す。だが、それを彼がまわりの人にちょっとでも訴えると、「何、言ってんだ!おまえだって、いい奥さんがついてるじゃないか。坊やだって元気に育っているじゃないか。俺たちだってみんなおまえが好きなんだ」と全否定される。そうすると、彼も「そうかもしれない」と思いなおす。そして、臨終の床で「俺の人生に悔いはない」と安らかな顔で呟[つぶや]くと、みんな「そうだよなあ、そうだよなあ、わかるよう」と涙にむせびながら心の中で拍手する。こうして、そう思いたいからそう思う、そう思わせたいからそう思わせる、という集団催眠は成功したのです。
なぜ、こんなことをするのか?これはカトリックの懺悔のような一種の儀式で、「おまえはみんなを喜ばせてくれたじゃないか、あんたのラーメンは飛び切りうまかったじゃないか」というように、「いいこと」を死にゆく者の耳に砲弾のように浴びせかけて、死にゆく者がみんなに感謝して死んでいくというストーリーを作りあげたいからなのです。そうすると、残された者は安心するから、ゆったりできるから。逆に、死にゆく者が、わが人生を恨み、まわりの者を恨み、もだえつつ死んでいくと、自分たちがとても後味が悪いからです。
同じ言葉を呟く別のタイプの人もいる。人生でいちおう人並みに仕事をやり遂げ、家庭にも友人にも恵まれで、六〇歳になり定年を間近に控えたいま、時折り「おまえは、それでよかったのか?」という声が彼の頭の隅をかすめる。俺はこれまで、どこまでも安全な人生を選んできた。それは、たしかにまちがってはいなかった。だが、二〇歳のとき、俺はあの冒険をあきらめた。三〇歳のとき、俺はあの情熱の火をかき消した。そして、もうすぐ恐ろしく地味な俺の人生も終わる。何の心のときめきもなかった。死にたいほどの苦しみも、天に上るような喜びもなかった。そして、俺はまもなく無になる。これでいいのだろうか?じわじわ疑問はからだじゅうに広がる。
だが、彼はそういう状態から必死の思いで引き返すのです。もう人生をやりなおすことはできない。もう取り返すことはできない。だから「もしかしたら、俺の人生は大失敗だったのかもしれない」という思いをぐっと腹の底に沈めて、「これでよかったんだ」と思い込む運動に入る。臨終の床で「みなさんありがとう」と呟いて死んでいく自分の姿が目に見えるようだ。それは恐ろしい。だが、いまとなっては俺にはそれしかできないのだ。
しかし、以上の二タイプよりははるかに私の趣味に反する(だから大嫌いな)のは、そしてたぶん数もずっと多いのは、次のような人です。彼女は、心底「わが人生に悔いはない」と信じており、健康にも恵まれ、夫にも子供たちにも恵まれ、あとは、みんなの迷惑にならないようにぽっくり死ぬことができたら、と真剣に考えている。そこには、無理も技巧も何もない。人生、もうそんなに生きていたくないし、「お父さん」と一緒にお墓に入れればそれでいい。自分が死んだあと、家族そろってお彼岸にでもお墓参りに来てくれれば、言うことはない。こういう「普通教」の信者とも言うべき筋金入りの「いい人」が、私にとっていちばん苦手。とはいえ、こういう人は、- イスラム原理主義者と同様 - 私とは異世界の住民ですから、そう信じて死んでもらうほかはなく、ただ私としては、厭[いや]だ、厭だ、嫌いだ、嫌いだ、と言いつづけるほかありません。
(後略)