(巻二十五)晩年の思い始めは蠅叩(鳴戸奈菜)

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(巻二十五)晩年の思い始めは蠅叩(鳴戸奈菜)

4月20日月曜日

細君は南の六畳間で、あたしは北の六畳間で寝ている。寝ているだけでなく一日の大半をそれぞれの空間で過ごしている。今朝細君からベランダに朝方に雀が来てうるさいとの不平が洩らされた。鳩はベランダに巣を作るが、雀は作らないだろう?餌は撒いていないし、ミカンの鉢植えに雀が寄るとも思えない。とにかく糞があったら掃除をしておくことになった。鳥の季節になってきたのかな?

囀りに耳を澄ませば愚痴少し(鈴木淑生)

終日雨で散歩せず。写真は過日一撮の閉館中の図書館の花壇。
郵便受けに突っ込まれているチラシも様子が変わってきた。マンションや戸建の不動産やパチンコ屋のチラシは来なくなり、食べ物の出前やテイクアウトが増えているようだ。今日は駅前の洋食「マルナカキッチン」と中華「和」のチラシがあった。

(読書)

 「誰がために金はある - 邱永漢」中公文庫 金銭読本

《もし死というものがなくて、金で人間の生命がひきのばされるものなら、人間の世の中ぐらい不合理なものはないだろう。が、幸いにして、金持も貧乏人も(たとえ神の前では平等ではないにしても)死の前では平等なのである。
そこで死に直前すれば、人は何か考えるところがあるに違いない。それが直ちに人生観の変化という大げさな現われ方をしないにしても、金銭に対する見方が、とかく見失われがちなものから本来のものへと戻って行くのではあるまいか。
人間は自分の計算によって行動する。けれどもどんなに巧みな計算でも、天の計算には及ばない。中国の俗言にこういうのがある。「リコウな者はバカを食う。バカは天を食う」と。金がいくら猛威をふるっても、天は人の生きる道を塞[ふさ]ぐものではないと私は思っている。 》

が「結」でした。自分の計算は天の計算に敵わない。“多分”そうだと思います。

目論見のはずれて海月浮きにけり(新井保)

だから、敵わない勘定を合わせるために際限なく金を貯め込むと岸田秀氏も書いておりました。「もう、これだけあれば大丈夫だ」と貯め込むことをやめることがないのだろう?

『 3/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析』 から

《人間の欲望が満足の限度を知らないのは、恐怖からの逃走だからである。恐怖から必死に逃走している者には、これで充分だとか、このあたりでやめておこうというようなゆとりはない。》

人はパンのみに生くるにあらずと言われるが、まさに、生物学的生命から遊離した自己なるものを築いた人間はパンのみで生きることはできない。しかし、もしパンのみで生きることのできる人間がいたとしたら、われわれよりははるかに平和的で、はた迷惑でない存在であろう。
物欲にせよ、攻撃欲にせよ、際限のない欲望に囚われ、駆り立てられている状態から脱出する道は一つしかない。それは、われわれが、われわれの自己が幻想であることを知ることである。そして、死を直視してその恐怖に耐えることである。それは不可能かも知れない。しかし、ほかに道があるであろうか。》

鷹のつらきびしく老いて哀れなり(村上鬼城)

死にたい人はいつでも苦しまずに死ねるようにしてもらえるとありがたい。それだけでゆとりができる。

今日もまた死にたき母は花カンナ(矢野はるみ)