「人生の秋 - 小此木啓吾」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から

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中高年の心の危機を語るときに、思秋期という言葉を使う。つまり、人生の秋を知る年代という意味である。
例えば鏡を見て、突然、自分の顔の老いに気づく。何か病気があることが発見される。この会社での将来もここまでという見きわめがつく。こうした体験を上昇停止体験と呼ぶ。それは人生の秋の訪れを知る体験である。その先には、死がごく身近なものとして迫っている。
このような心理について、メタファーとして秋という言葉が使われる。
しかし、この使い方には実はもっと具体的な実体がある。例えば秋口、肌寒さを感じたり、冷え冷えした大気を感じるころになると、うつ病を再発する人々がいる。夏のカッカッと日が照って、暑い暑いというてきには、結構活発に、そしてまた、快活にやっていた人が、秋の訪れとともに気が滅入り、人生の無常を感じ、いわれのないさびしはにとりつかれる。こんな気持ちの中にどんどん落ち込んでいくと、本物のうつ病が再発してしまう。
職業柄、「秋」という今回の特集テーマに触れると、先ず思い浮かぶのは、これらの人々のことである。彼らは、どこか外界の気温の変化に対して、本当の意味での自律性が確立していない。
乳児は、低温環境に置かれれば、冷えてしまう。高温の環境に置かれれば、発熱してしまう。つまり、外界の変化に対して自律性がなく、外界の変動に左右される。
うつ病になりやすい人も、この意味での自律性が、本当には確立されていない。普通だったら、外界が寒くなれば、その分自家発電して、自分で自分を温める能力がある。外界が暑くなれば、汗をかいて自分の体温
を下げようとする。こうした生体の能力をホメオスターシスと呼ぶが、ホメオスターシスの脆弱さが、うつ病になりやすい人の一つの素質である。
しかし、だれでも秋になると、大なり小なり、心さびしくなったり、いわゆる秋風が立つような気持ちになる。ノーマルな精神状態では、こうしたさびしさとか、無常感は、どこか、マゾヒズム的な快感を含んでいる。秋が好きだという人はむしろ、こうした孤独やさびしさを、快感をもって味わえる人々である。
そして、秋にはもう一つ別な一面がある。これはむしろ秋の入り口に起こる現象だが、それは、台風である。私たちの患者さんの中には、台風が好きという人が意外に多い。ビュービューと音を立てて風が吹いたり、大雨が降ったりする街中に、わざわざ飛び出して歩き回ったりするのが好き。あるいは、風の吹き荒れる光景をながめていると、何とも言えない快感を感じる。台風は日常、われわれが抑圧している心の中の暴力とか、破壊性を生き生きと体験させてくれるからだ。
その破壊的な体験の中には、人生のそれまでの積み重ねを一挙に投げ出したり、人との絆を壊したり、あるいは何もかも御破算にしてしまいたいという、人間の死の本能の高まりがある。
しかしながら、秋にはもっとあかるい面もある。むしろ秋というと、運動会とか、体育の日とか、ハイキングとか、澄み渡った晴々とした日々を思い浮かべる人も多い。たしかに秋晴れの日は、一年の中で一番心地好く、また、人間がいろいろな精神活動を行うのに、適した季節である。
正直言って私は、春、例えば四月があまり好きではない。なぜならば、春の陽光うららかで桜が咲いて、というけれど、実際にはそういう日は少なくて、風ばかり吹く。見かけは暖かそうで、その実、冷たい風が吹く。風のために、何か気持ちが落ち着かなくなる。そういう日が多い。それに比べると、秋は本当に安定して、晴々とした精神状態を提供してくれる。
ところがこうした健康な秋晴れの日は、その場にいれば、ああ、いいなあと思うのだが、それ以上心に残らない。むしろ台風とか、秋風が立つさびしさとか、そういう印象のほうが、秋という言葉ですぐに浮かんでくる。
人間の心についても、同じようなことがある。比較的ノーマルな安定した心の状態は、あまり強く意識にのぼらない。あたりまえのことでありすぎて、極端に言えば、心があることさえ忘れられている。
同様に、体の丈夫な人は、自分に肉体があることを忘れている。それは一番幸せな状態である。違和変調が起こると、初めて自分も肉体を持った存在であることを思い知る。その極端な場合が、死に出合うことだ。初めて自分が肉体的な存在でなくて、純粋に心だけの存在であればと、だれもが思う。
自然の天気についてもそうなのだ。秋晴れのよい日より、むしろ台風とか、秋風が立つときとか、心にそうした何らかの苦痛や不安やさびしさを与えるときに、秋が強く意識される。
もしかしたら、秋が、「思秋期」や「人生の秋」などの形でつかわれるメタファーになっていることも、秋に対する一種の固定観念を生み、それがこの秋感覚に一役買っているのかもしれない。