1/2「三上・三中 - 外山滋比古」ちくま文庫 思考の整理学 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200425082121j:plain


1/2「三上・三中 - 外山滋比古ちくま文庫 思考の整理学 から
 
どういうところでいちばんいい考えが浮ぶか。科挙という国家試験が古くから行われた中国では、そのことが真剣に考えられたのであろう。科挙では文章を綴る能力が試験されたから、われわれがいま考えているよりもはるかに、文章が重視されていた。
このごろ、わが国でも、大学の入試に、小論文を課すところがふえてきた。やはり、きびしい試験で文章力が実際的な影響力をもつようになってきたとしてよいのかもしれない。
すでに前にものべたが、中国の欧陽修という人は一般には三上ということばを残したとして、はなはだ有名である。三上とは、これまた前のくりかえしになるが、馬上、枕上[ちんじよう]、厠上[しじよう]である。
これを見ても、良い考えの生れやすい状況を、常識的に見てやや意外と思われるところにあるとしているのがおもしろい。
馬上は、いまなら、通勤の電車の中、あるいは、クルマの中ということになろうか。電車なら無難だが、考えごとをしながらクルマを運転していては危険かもしるない。昔の馬上ならすこしくらいぼんやりしていても、交通事故になる心配はしなくてもよかっただろう。
まえに、スコットの「くよくよすることはないさ。明日の朝、七時には解決しているよ」ということばを紹介した。スコットのは、ひと晩寝ているうちに、考えが自然に落ちつくところへ落ちついているということである。その間、ずっと“枕上”の状態ではあるが、別に考えようとしているわけではない。
ここでは、むしろ、目をさまして床の中に入っているときに、いいアイディアが浮かんでくることを言っている。それに、夜、床に入ってから眠りにつくまでよりも、朝、目をさまして起き上がるまでの時間の方が効果的らしい。これも前に書いたが、ハルムホルツなガウスが、朝、起床前にすばらしい発見を思いついたというのはそれを裏付けている。
前に忘却のところでも、眠っているあいだに忘れているのだということをのべたが、睡眠に二種類あることがわかってきた。レム(Papid Eye Movement)睡眠と、ノン・レム(Non Rapid Eye Movement)睡眠である。レム睡眠のときは、体は休息しているけれども、頭ははたらいている。ノン・レム睡眠では逆に、頭が休み、筋肉などはかすかに活動しているといわれる。つまり、睡眠中もレムの間は一種の思考作用が行われている。眠っていても考えごとができるわけである。無意識の思考が、これがたいへんすぐれていり。枕上とは、それをとらえたもので、古人の鋭い観察にもとづく発見と言わなくてはならない。洋の東西を問わず、床の上の考えのすぐれていることに着目しているのは興味ぶかい。
朝、トイレへ入るときに、新聞をもちこんで丹念に読むという人がいる。トイレの中に辞書をおいている人もある。いずれにしても、トイレの中は集中できる。まわりから妨害されることもない。ひとりだけの城にこもっているようなものだ。
その安心感が、頭を自由にするのであろうか。やはり、思いもかけないことが浮かんでくることがすくなくない。ただ、人にこれをあからさまに言うのを、たとえば、馬上、枕上に比べて、はばかることが多いのかもしれない。
ものを考えるには、ほかにすることもなく、ぼんやり、あるいは、是が非でもと、力んでいてはよくない、というのが三上の考え方によって暗示されている。
いくらか拘束されている必要がある。ほかのことをしようにもできない。しかも、いましていることは、とくに心をわずらわすほどのこともない。心は遊んでいる。こういう状態が創造的思考にもっとも適しているのであろう。