「たったひとつの選択 - 色川武大」中公文庫 いずれ我が身も から

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「たったひとつの選択 - 色川武大」中公文庫 いずれ我が身も から
 
どういう死にかたがよいか、と考えても、若い娘に理想の男性を訊くのと似て、やがて直面した死にかたをするより仕方ないから、無駄な考えに近い。
私は父親の不惑すぎの子供で、物心ついたときにすでに父親に老いを感じていたから、いつかわからぬが近い将来父親が死に、いつか自分もそれを踏襲していくのだと思わざるをえない。だから子供の頃から死というものを持てあまし気味にいつも考えていた。
それであっというまに五十を越した。私は来世というものを信じられないから、死を納得するのは容易でない。けれども、自分の身体が日に日に衰えていくのが呑みこめるし、多分疲れても居るのだろう。昨今は、それが、なんだかあたたかい夜具の中でも身体を入りこませるもののように思えてきた。
同年代の友人にそういうと、
「それはイヤな考えだな。子供が居ないからそんなことを思うのだろう」
といわれた。しかし私が幼い頃から馴れ親しんだ人の多くは、もうこの世に居ない。来世は信じないけれど、まんざら見知らぬ所へ行くのでもないような気がする。
それとはべつに、一生というものがこんなな短いとも思わなかった。芝居でいうと、一幕目が終るかどうかという頃合いに、もう残り時間がすくなくなっている。
私が何歳まで生きることができるか知らないが、たとえ何歳まで生きるにせよ、私の仕事である小説を書くという作業に必要なコンディションを維持するには、六十歳までくらいが限度であろう。それ以上生きることができたとしても、体力気力に相当なハンデがつく。
すると私が仕事ができるのは、あと五六年しかない。これが口悔[くや]しい。若い頃はそう考えずに、手早く小さくまとめようとしないでできるだけ時間をかけようとした。私は頭でこしらえる方ではないから、できるだけじっくり生きて、自然に身からにじみだすのを待たなければならない。それが今はもうそんな悠長なことはできない。
たとえば十年かけてまとまる仕事を駈足で二年でやったとて、私のようなタイプはろくなものができないのである。
すると、五年以内でまとまるようなテーマだけを手がけていくべきなのであるか。
それとも、終点のことは考えず、あくまで十年がかりの仕事を手がけていって、途中で討死するのが人らしいことなのか。
いずれにせよ、一生をかけて、自分は何かを実らせるというところまでは行きつかないらしい。多分、多くの人がそうなのだろう。その点はせつないが、それなのに、死ということをあまり大仰に考えなくなったのはどういうわけだろう。
無責任のようだが、死んで、あとかたも残らなくてやむをえない。どうせ死ぬならむしろそうあってほしい。死んだ後も魂がゆらゆら漂うなどはごめんこうむりたい。
今はまだ安楽死が許されていないから、たったひとつ自分で選べる死に方は、自殺である。
やっぱり若い頃、私は自殺に対する抵抗力はかなりあると思っていた。これ以上恥をかきようのないどん底を早く経験していたから。けれどもそんなことはぜんぜん当てにならない。もしピストルがあったら、すぐさま死んでいたにちがいないであろうということが、近年だけでも三度ある。一度などは、死のうと思って九州の涯まで出かけたくらいである。
私の友人でも、若い頃かなり強い生き方をしてきた人で、初老を迎えてなかば自殺に思える死に方をしているのが何人もある。それぞれ理由があって、自分から体調をこわし死に近づいてしまった。大きな声ではいえないが、私も、生死のことなどあまり大仰に考えたくない。