「寿命は定まっている - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

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「寿命は定まっている - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

さて、私は「一度は死ぬのだ」とあきらめて欲しいと提唱してきた。問題はそのあきらめ方にもある。徳之島の泉重千代さんは百十八歳をすぎても生きている。私も百歳まで生きたらあきらめましょうといわれるのでは困る。多くの人は、七十歳ごろから八十歳ごろにかけての間に死ぬことが多いのである。さきにも説明したように、一〇〇〇人生まれた人のなかで、八十五歳をすぎて生きているのは、五人したいない。しかもその五人の男女の比率は男一対女二の割合である。高齢化社会というのは、一定の年齢(七十~八十歳)まで生きる人がふえたということなのである。
なぜ女性のほうが長生きなのか(女性と男性の平均寿命の差は五年)それはけしからんといってみてもはじまらないわけである。このように、寿命というものはどうにもならない面がある。私たちが心得なければならないことのひとつは、寿命はその人にとって決まっているという面がかなり強いということである。いまの日本では、なんでも平等でないと気に入らないという人が多いが、寿命は平等ではない。寿命は絶対的なものではないかもしれないが、それぞれの人々が生きる可能性のある年齢を寿命というとすれば、ある程度までそれぞれの人によって決まっている。ただ、私たちが死ぬ場合、かつては伝染病で多くの人々が死んだが、いまでは伝染病ではほとんど死ななくなっている。むしろ現代の伝染病死は事故であろう。これは、まったく予測のつかないものである。私たちが死ぬのは、事故を除くと成人病である。これにかかるか、かからないかは大きなポイントになる。
私たちそれぞれが、何歳まで生きられるかの可能性を調べるのに次のような方法があるといわれる。自分の両親、両親にそれぞれ両親があるので、合計六人が、何歳で死んだかを合計し、それを六で割った数値に三年たすと、大体、自分が生きる可能性のある年数がでるという。ただし、父親が戦死したとか、母親が結核で死んだとか、祖母が交通事故で亡くなったというような、伝染病や事故で亡くなったのはノーカウントである。つまり、近い親族が成人病で死んだ年の平均に三年たした数が自分の寿命ということになるわけである。この三年たすというのは、医学が成人病の寿命延長に寄与した部分で、案外短いものである。
こうしてでてきた数値は、生きる可能性を示した年齢であって、すべての人がこの年齢まで生きられるという意味ではない。そこまで生きるためには、ちゃんと年一回、健康チェックをして、成人病になっても、早期に発見し、ちゃんと抑え込んで“一病息災”に持ち込むように努力しなければならない。さらに、さきにも説明したように、眠って、働いて、食べることに十分気をつけて、規則正しい生活をすることによって、自分が生きる可能性のある年まで生きることができるのである。

世間では、たとえば、ジョギングをすれば長生きできると思っている人が多いが、そうではない。ジョギングするのは結構なことで健康を守るうえに効果があるが、ジョギングをしたからといって、与えられた寿命が延長されるというものではない。ジョギングをしなければ(運動しなければという意味)運動不足によって、与えられた(予想される)寿命より前に死ぬ可能性があるわけである。
よく、人々は長く生きた人が食べていたものを食べれば、長く生きられると考えるものである。しかし、これは、多くの場合、本末転倒である。たまたま長寿の人が食べていたのが、特定のものだったというにすぎないことが多い。それを食べれば長く生きることができるというものではない。これもジョギングとよく似ている。ジョギングをすれば長命になるのなら、マラソンの選手はみんな長命でなければならないが、残念ながら、決してそうではない。
八十五歳をすぎて元気だという長寿の人は、まず、遺伝因子がすぐれているのである。これは、長寿の遺伝因子を持っているというのではなくて、病気に対する抵抗力がある、つまり免疫力がすぐれているということのようである。これは、生まれたときに決まっているのであって、将来、遺伝子組み替えが自由にできるようになったら組み替えることができるかもしれないが、現在のところでは、どうにもならないのである。さいわいにいい遺伝因子を持って生まれた人以外は、八十五歳までに死ぬのである。しかし、八十歳まで生きることができれば、結構なことだという考え方もあるだろう。ただ長く生きているだけが能ではあるまい。毎日、何もすることがなくて、ただ生きているという生活を送るのは、一種の苦痛なのではないだろうか。もっとも、脳が老化して、それを感じないようになっているとしたら、それは“尊厳生”ではないだろう。