「“荷風の最期-浅草尾張屋” - 新藤兼人」新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩(103頁辺り) から

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「“荷風の最期-浅草尾張屋” - 新藤兼人新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩(103頁辺り) から

荷風は偏奇館で三年ばかり自炊したことがあるが、ほとんど外食である。新橋の金兵衛、今朝。銀座で銀座食堂、風月堂、フジアイス、資生堂、竹葉亭、ローマイヤ、エイワン、千疋屋、モナミ、など。カフェー酒場では、タイガー、サロン春、銀座パレス、黒猫、など。コーヒー店では、萬茶亭、コロンバン、きゅうべる、など。日本橋の花村、富士見町、牛込、築地のいたるところに馴染みの店があって、その数は優に百をこえる。
浅草では、松喜、大黒屋、今半、萬屋、丸三屋、品芳楼、伊勢屋、アリゾナ、森永、梅園、鳥重、など三十余が見える。しかし「てんぷら尾張屋」の名がない。なぜか。
尾張屋は雷門の横の古い天ぷらの店である。荷風はきっちり正午にここへきてかしわそばを食った。この店のおかみさんがそれを証言し、なによりの証拠にかしわそばを食っている荷風の写真がある。たぶん七十九の春三月であろう。
わたしは市川市歴史博物館の学芸員松岡久美子さんと共に尾張屋を訪ねた。美人のおかみさんである。昭和三十四年の春嫁入りしてきたばかりであった。
はじめ荷風とわからなかった。背の高いじいさんがはいってきて、かしわそばを注文した。尾張屋の自慢は天ぷらである、ここの尾っぽがはみだしている天丼は有名で、浅草へきた人は尾張屋の天ぷらをめざすという。だから、そばならたいてい天ぷらそばを注文するのだが、背の高い老人はかしわそばだった。
さらに印象に残ったのは、店の表のほうへ向かないで、帳場のほうへ向って腰かけた。帳場は表と反対側のどんつきにあった。さらにまた変っていたのは、中折帽子を冠[かぶ]ったままそばを食べるのである。帳場にいる若いおかみさんと向き合う形となった。前歯がぬけているのがよくわかった。
それから毎日この老人はきて、同じ卓に同じ向きでかけ、かしわそば、といった。三日四日とたつうちに、掛けて何もいわないでおかみさんを見る。それでおかみさんが、かしわそばですか、と問うとうなずく。それからは、老人がはいってきて掛けると、かしわそばを出すことにした。食べおわった老人は、ゴミ箱から拾ってきたようなボストンバッグのチャックをおもむろに引き、中から真新しい紙幣を出して勘定をすませた。あるとき、店の隅にいた学生らしい若い男が、不意に立ち上り、つかつかと荷風のまえにきてカメラをかまえた。
そのとき荷風は、ちょうど口を少しあけてそばをつまみあげたところであった。カシャッ。つづけて二枚撮った。写真を撮られることを嫌っていた荷風だが、素早い行動に拒否するひまもなかった。
この青年は千葉に住む写真学生で、荷風を追っかけまわしていたのだ。それで、この老人が永井荷風であることがわかって、尾張屋にマスコミがおしかけ、おかみさんはフラッシュをあびることとなった。
それからも荷風はきた。きっちり正午。それを狙ってマスコミ。尾張屋はかきいれどきに被害をこうむったが、マスコミは尾張屋の迷惑に気を配ったりはしない。荷風もまた尾張屋へある日の午[ひる]、おかみさんは三月だったと思うといっている、やはりかしわそばを食べていた荷風は、席を立って帳場のほうにきた。おかみさんは勘定をすませるのだと思った。ところが荷風は帳場の横のトイレにはいった。荷風尾張屋へ来だしてからはじめてのトイレだそうだ。
荷風がドアへ消えて間もなく、どすんという音がした。おかみさんは何事か起きたのではないかと、席を立ったがためらった。男のトイレへはいって行くのは若いおかみさんにははばかられた。それでキッチンへ声をかけた。仕事をしていた若い衆がとんで行った。
この人は、いまは頭の毛が薄くなった中年の番頭さんだが、おかみさんの声でキッチンから出てきて証言してくれた。
荷風は大便のほうで、ズボンを下ろして後へ仰向きに倒れていた。若い衆は早速抱きあげたが荷風はもうろうとしていた。ズボンをはかせようとすると、荷風ははっと気づいたように自分でズボンを引き上げようとしたが力がたりない。若い衆はズボンをはかせ、肩を入れてドアの外へ連れだした。
そこでおかみさんが駆け寄って、片方から荷風をたすけようとすると、荷風はプライドを傷つけられたようにその手をふり払おうとする。
だが荷風はもうろうとしているので、おかみさんと若い衆は両脇からたすけて、表へ出て行き、タクシーを呼びとめて乗せた。
落ちたソフトをおかみさんが拾って荷風の頭へのっけると「ありがとう」感謝のこもる声でいったそうだ。
それきり荷風尾張屋へこなかった。そして間もなく、おかみさんは荷風の訃報をきいた。
断腸亭日乗』によれば、「三月一日(昭和三十四年)。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる」となっている。西洋料理店アリゾナによれば、店で倒れた荷風をたすけて起こしたのはアリゾナの主人である。そして荷風は以後一度も浅草へ出ることなく、四月三十日他界したのである。
尾張屋のことをなぜ書かなかったのか、トイレでお尻をむきだして倒れたことは痛恨の一事であったのか。

三月二日 陰。病臥。家を出です。
三月十六日 晴。正午大黒屋。

大黒屋というのは、荷風の家から歩いて三分、めし屋である。きまってカツ丼を食った。正午浅草が、正午大黒屋で埋まる。気力喪失したが、外食だから、食事は外に出なければならない。『断腸亭日乗』に - 余はつくづく老後家庭なく朋友なく妻子なきことを喜ざるべからず - とした荷風は、いまそのけじめを甘受しているのである。
四月三十日の朝、近所のお手伝いのおばさんが訪れて見ると、荷風は六畳の間に俯[うつぶ]せに倒れてこときれていた。
吐血のあとがあった。マフラーをかぶるように頭に巻いたままだった。ズボンがずり落ちていた。掃除の嫌いな荷風は、お手伝いのおばさんにも六畳は掃除をさせなかった。部屋は綿埃[わたぼこり]がたつほどよごれていた。火鉢、ネスコーヒーの瓶、まるでゴミ溜のようななかに荷風は無残に倒れていた。大事なボストンバッグが主人の枕許に転がっていた。
だが、荷風に悔いはなかっただろう。苦しい死が迫ってきても、あまたの女たちを思いおこさなかっただろう。ただ、気分が悪い、胸からなにかおしあげてくる、ああ、死ぬんだな、と思ったことだろう。
ノートには、大正六年以来書きつづけてきた『断腸亭日乗』が「四月廿九日。祭日。陰」とあった。