「セーラー服と四畳半 - 澁澤龍彦」中公文庫 少女コレクション序説

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「セーラー服と四畳半 - 澁澤龍彦」中公文庫 少女コレクション序説
 
サド裁判の被告になって以来、「ワイセツとは何か」といったような質問に、私は何十回となく回答を要求されて、いい加減うんざりしてしまった。べつにワイセツの専門家でもなく、朝から晩までワイセツのことばかり考えているわけでもないのに、ジャーナリストは情容赦もなく、私に千篇一律の質問を浴びせかけてくるのである。
本当のことをいってしまえば、ワイセツとは大へん結構なものであって、これがなければ、人類はとっくの昔にほろびていたのではないかと思われる。なるほど、犬や猫の世界にはワイセツはない。人類だけが、性的欲望を洗練させて、エロティシズムの世界を確立したのである。
それでは、エロティシズムとワイセツとはどう違うのか。これは簡単なことで、いわゆる良風美俗に反するような、強烈なエロティシズムを便宜上、社会がワイセツと呼んで卑しめているだけのことである。
今日のように、良風美俗の規準がはっきりしない社会では、ワイセツ
規準も曖昧にならざるを得ない。いや、そんなことよりも、いわゆる良風美俗を敵としなければならない私たち文学者にとっては、時と場合によっては、ワイセツと手をむすぶことが必要とされるのである。それだけのことである。
それはともかく、現在の私にとって非常に気がかりなのは、いまの若いひとたちが、はたしてワイセツというものを理解しているのだろうか、ということである。
先日も、野坂昭如氏と対談した折りに、そのことが話題になったのだけれども、たとえばいまの若いひとたちが、私たちと同じような中年の年齢に達した時に、彼らははたして、女学生のセーラー服にワイセツ感をおぼえるだろうか。
もし彼らが中年になっても、女学生のセーラー服に少しもワイセツ感をそそられないとすれば、これは重大問題である。そうなったら、文化財保護委員会みたいなものをつくって、とくにワイセツと認定されたものを、保存育成しなければならなくなるであろう。
あたかも私たちが美術館で、ガラス・ケースのなかに陳列されたセーラー服や黒い靴下を眺めて、脂汗を流しながら、何とかしてワイセツ感を惹起せしめようと懸命になるであろう。
ところで、問題の『四畳半襖の下張』であるが、これは現在の私にとって、まことに残念ながら、あまりワイセツなものではなくなってしまっている。少なくともセーラー服よりはワイセツではない。金阜山人の名文にケチをつけるつもりは毛頭ないか、どうも、あんまり正攻法で、あんまり正常すぎるような気がするのである。
最後に袖子が「おつかれ筋なのね」といって、フェラチオをするシーンがあることはあるが、「一きは巧みな舌のはたらきウムと覚えず女の口中にしたたか気をやれば......」などといった描写は、やはり一種のマナリズムで、ワイセツからは遠いような気がする。太平記の道行文を暗誦するように、私はほとんど暗誦できそうな気がする。
というのは、要するに現在では、それだけフェラチオが一般化して、その技術も進んだということなのかもしれない。かつてはフェラチオという行為を筆にするだけで、すでに良風美俗に抵触するような趣きがあったのに、現在では、実生活においても文学作品においても、この行為は頻出するのである。
もっとも、こんな私の文章を金阜山人が読んだら、「やれやれ、いまの若い者は無粋で困る」と慨嘆するかもしれない。
野坂昭如氏は今度の裁判で、「現在の普通人にはたして『四畳半』が読めるか」という点に論争の焦点をしぼるそうであるが、たしかに『四畳半』の冒頭の前がきに出てくる「今年曝書の折......」という言葉ひとつを取ってみても、現在では「曝書」という習慣はまったく行われていないし、字引を引かなければ、若いひとには何のことかさっぱり解らないであろう。さても嘆かわしいことである。