「庶民の夏 - 鏑木清方」岩波文庫 鏑木清方随筆集 から

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「庶民の夏 - 鏑木清方岩波文庫 鏑木清方随筆集 から
 
私はまったく根からの庶民だが、そのことは取り分け夏になっての常住座臥、見るもの触れるものに、われながら心底身につけていることを感じもするし、この季節にものの美しさ、懐かしさ、そこに根ざさぬものはない。
夏の湿気と温気に蒸されれば、だれでも、しつこいもの、暑くるしいものはいやで、涼しい、軽い、さっぱりしたものがよくなる。煩雑な生活より簡素な暮しを望む。頂くものなら夏も小袖とはいうが、まさかそれを炎天に着て悦ぶ人もあるまい。下襲[しもがさね]いくつか重ねて着るろ[難漢字]や明石より、素肌に木綿の浴衣、洗いたてでほどよく糊の利いたのにくつろいだ、それこそ夏のいのちであろう。
私の経て来た明治には、百年、百五十年前の江戸の市民が日々の暮らしの、行事、調度、たべもの、何くれとなくいつも手の届く身のまわりに残されているものが少くなかった、その思い出も夏に多い。庶民は解放を悦ぶ、夏はいずこも開け放たれて、この上なく解放的だからでもあろう、家々の間仕切[まじきり]、紙障子は外されて葭戸[よしど]に替るか、またはサイミという地の詰んだ麻布の暖簾をかける。風通しのよい家では、水色や紅の乳[ち]をつけたのが吹き込む風に翻って、中庭の青葉が鮮かに覗かれる。洋室の窓のレースに庭樹を透かすのとはまた趣が違って、そこにあるべき人柄も想像されよう。
東京のように海にも菜圃[さいほ]にも遠くない都会では昔から生きのいい魚介、新しい野菜に恵まれている。食生活をゆたかにするばかりか、なまじいの造形芸術のおよびもつかない美しさを、いつもわれわれの庖廚[ほうちゆう]に展観させてくれる。銀色の鰯、虹のいろどりを背に宿す小鯵、蜆は漆黒の殻に包まれ、殻浅蜊の縞ごのみは唐桟柄[とうざんがら]を偲ばせる。
紺瑠璃色の茄子[なすび]の艶と、翡翠[ひすい]の緑滴る胡瓜とは、片影をつくる葭ず[難漢字]をもれて、八百屋の店頭にピカソの陶画にでもあるような、新鮮な魅力を放つ。
食事に卓を使わなかった頃、檜材の能代塗の膳に、漆の椀と染付の皿や茶碗に盛られる真っ白な米の飯と、見る眼鮮やかな漬物の色どりは、大名暮らしでは窺い知るべくもない、市井ならではのスッキリした調和の美しさを三食ごとに恣[ほしいまま]にする果報があった。夏の夜の灯がまた懐しまれる。近頃はあまり見かけぬが、お盆には、西瓜、冬瓜その他の瓜類、または茄子などの実をくりぬいて灯をつけ、おさな児たちうちつれ立って、盆の歌を唱ってあるく。唐茄子の種をえぐ[難漢字]ってキリギリスやガチャガチャを飼ったのも愛すべき陋巷[ろうこう]の風流であった。
縁日の植木市にとぼしつらねたカンテラの火が、打水をした木々の葉の雫[しずく]して、露の玉を照らす風情、ゆきずりの浴衣の藍の香も立って、この涼味、庶民の夏の思い出はきっとそこへ誘われずにはゆかない。
(昭和二十五年七月)