「三年坂にまつわる俗言(一部抜き書き) - 横関英一」中公文庫 江戸の坂東京の坂 から

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「三年坂にまつわる俗言(一部抜き書き) - 横関英一」中公文庫 江戸の坂東京の坂 から
 

三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が、旧東京市内に六ヵ所ばかりある。いずれも寺院、墓地のそば、または、そこからそれらが見えるところの坂である。
三年坂はときどき三念坂とも書く。昔、この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬというばからしい迷信があった。お寺の境内でころんだものは、すぐにその土を三度なめなければならない。もちろん土をなめるまねをすればよいのであるが、わたくしたちも子供のころ、叔母などによくやらされたものである。それをしないと三年の内に死ぬのだと、そのときいつもきかされたものだ。坂はころびやすい場所であるので、お寺のそばの坂は、とくに人々によって用心された。こうした坂が三年坂と呼ばれたのである。三度土をなめるということは、三たび仏に安泰を念願することである。とにかく、三年坂という坂は、坂のそばに寺か墓地があって、四辺が静寂で、気味の悪いほど厳粛な場所の坂を言ったもののようである。古い静寂なお寺の境内で味わうものと同じような気持ちである。

(中略)

最後の三年坂は、千代田区霞ヶ関三丁目一番と二番の境、文部省の北わきを西北方に上る坂である。この付近は、文部省をはじめ、大蔵省、外務省、その他いかめしいお役所が林立しているところである。寺院や墓地などとは、およそ縁もゆかりもないようなところに思われる。しかし、明治五年に、この付近の町名を三年町としたのは、ここに昔から有名な三年坂があったがためにほかかならない。とにかく、ここに三年坂があるからには、昔この付近に寺院か、その墓地がなければならないはずである。江戸絵図を見ても、大名屋敷がぎっしりならんでいて、この付近には「三年坂」を除いたら寺院にゆかりの名さえも見あたらない。しかし徳川家康の入国以前の状態を調べてみると、意外にもこの辺の高台は、大きな寺院や墓地でふさがっていたゆうである。
現在の皇居内吹上御苑も、そのころは局沢[つぼねざわ]と言って、大きなお寺が十六カ所もあったと伝えられる。それから、一つ橋、神田橋内外の地(昔の平川村)にもお寺がたくさんあったはずである。たとえば、丸山の本妙寺、浅草の聖徳寺、善徳寺、牛込の宝泉寺、四谷の西迎寺などは局沢から移ったもので、本所の平川山法恩寺、赤坂の平川山源照院浄土寺、浅草の東光院、地蔵院、祝言寺などは、平川村から現在のところへ移転して行ったのである。そして、その跡、将軍賜邸として、大名屋敷になったのである。今の文部省のところは内藤能登守の屋敷であった。大蔵省のところは、松平伯耆守や高木主水の屋敷、外務省のところは、黒田肥前守、人事院ビルのところは松平安芸守の屋敷であった。そしてこの付近一帯を桜田霞ヶ関と呼んだ。天正のころには、今の外務省から文部省付近までは、大名屋敷の代りに、大寺院が甍[いらか]を並べていたはずである。

その主なるものをあげてみると、第一に光明山和合院天徳寺である。いま西久保巴町に実存するが、この寺は天文三年に紅葉山(今は皇居内)に起立して、天正十三年に桜田霞ヶ関に移ったという記録が残っている。天正十三年から慶長十六年まで、およそ二十六年間、今の霞ヶ関二丁目一帯をその境内としていたのである。その他、霞ヶ関付近にあった寺院は栂上山証誠院光明寺(これは慶長二年まで)、称光山長延寺華徳院(これも慶長中浅草に移った)、長命山桐樹院証誠寺などである。もう一つ、今、新宿に霞関山本覚院太宗寺という寺があるが、これは昔、内藤修理亮が慶長中創設したものだというが、その山号が霞関山であることから、この寺の旧地は、この霞ヶ関ではなかったかと思うのである(異説もあるが、わたくしはこのほうをとりたい)。
とにかく霞ヶ関付近、とくに溜池台には、いろいろと有名寺院があったことは事実である。たとえば、芝の「東禅寺」は、今のアメリカ大使館付近にあった。大使館わきの坂を霊南坂というのは東禅寺の開山霊南和尚に名からきたものである。それから、高輪の「泉岳寺」も、古くは今のホテルオークラの付近にあったものである。なおこの辺には「ふくごん寺」という寺もあった。まして、この近くの三年坂付近に、寺院や墓地がなくて、なんで三年坂という名ができよう。
要するに、三年坂の坂名因由は、きわめて平凡な、「この坂でころぶものは三年のうちに死ぬ」という俗信からきたものである。
三年坂という名称は、不吉な意味を持っているので、いつの間にか他の名称に改められたものが多い。特に、おめでたい名前に変わっている。たとえば、三年坂が産寧坂とか三延坂、三念坂などと。それから全く「三年」をきらって、鶯坂、螢坂、淡路坂、地蔵坂のような別の名に改められたものもある。
三年坂に似たものに、二年坂(二寧坂とも)、百日坂、袖きり坂、袖もぎ坂、花折坂などと言う坂もあるが、これらは三年坂と同じ種類のもので、二年坂は三年が二年になっただけである。百日坂はさらに期限が短縮されて、この坂でころぶと百日の内に死ぬということになっている。袖きり坂、袖もぎ坂、花折坂などは、この坂でころぶとやはり三年の内に死ぬというのであるが、仏寺に花をささげたり、自分の着物の袖を切ってささげることによって、死の難からのがれることができるというのである。
こうした俗信は、かなり古い昔から行われ、しかも日本全国にわたって流行し、信仰されたもので、地名としても、いたるところに、その根強い民俗的信仰の記録を残しているのである。