1/2「橋の彼方の世界 - 江藤淳」新潮文庫 荷風散策 から

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1/2「橋の彼方の世界 - 江藤淳新潮文庫 荷風散策 から

昭和六年(一九三一)の『断腸亭日乗』を繙[ひもと]くと、この年の十一月以降翌七年の六月にかけて、荷風散人が深川から砂町埋立地あたりにまで、しきりに杖を曳いていることが明らかである。
たとえば、ここに次のような記事がある。

《十一月二十日、好く晴れて風もなし、ホジ[難漢字]中洲に往き薬を請ふ、暮色怱蒼茫たり、新大橋を渡り電車にて錦糸堀終点に至る。四之橋より歩みて五の橋に出[い]で、溝渠[こうきよ]に沿ひて大嶋橋に至る、新道路開かれ電車往復し工場の間には処々公園あり、余震災後一たびも此辺に杖を曳きたることなければ興味おのずから亦新たなるを覚ゆ、震災前には菊川橋より以東は工場の煤烟溝とく[難漢字]の臭気甚しく、殆[ほとんど]歩む事能[あた]はざるほどなり、然るに今日来り見るに、工場の構内も餘程清潔になり、道路もセメント敷となり、荷車走過るも塵烟[じんえん]立迷はず、溝渠の水も臭気を減じたり、扇橋を渡り新開道路を往復する電車に乗る、小名木岸より洲崎遊郭前に至る間、広々したる空地あり、堀割幾筋となく入り乱れ、工場の烟突遠く地平線の彼方に屹立[きつりつ]す、目黒渋谷あたりの郊外とは全く別様の光景なり》

さらに、また、

《十一月廿七日、晴、午後中洲に往く、帰途新大橋を渡り電車にて小名木川に至り、砂町埋立地を歩む、四顧曠茫[くわうぼう]たり、中川の岸まで歩まむとせしが、城東電車線路をわた[難漢字]る頃日は早く暮れ、埋立地は行けども猶尽きず、道行く人の影も絶えたり、折々空しき荷馬車を曳きて帰[かへり]来るものに逢ふ、遠く曠野のはずれに洲崎遊郭とおぼしき燈火を目あてに、溝渠に沿ひたる道を辿[たど]り、漸[やうや]くにして市内電車の線路に出でたり、豊住町とやら云へる停留所より電車に乗る、洲崎大門前に至るに燦然[さんぜん]たる商店の燈火昼の如し、永代橋を渡り日本橋白木屋前にて電車を下[お]る、蓄音機の響四方に起り行人雑とう[難漢字]するさま、之を砂町曠原の夜に比較すれば別天地に来りしが如し》
文中「中洲に往く」とあるのは、主治医であった中洲病院長の大石医師に、投薬を乞うために通院していたことを指しているが、荷風がこの時期に、震災以来八年の歳月を隔てて新大橋を渡る心境になったのは、あるいはお歌と別れたあとの寂寥[せきりよう]をなにがしか慰撫するものを、隅田川左岸に拡がる新風景のなかに見出していたためかも知れない。
だが、それよりも先に、荷風に必要だったのは、橋を渡るという行為そのものだったのかも知れない。実際、橋という建造物は不思議な作用を人の心に及ぼすものである。それは川の両岸をつなげることによって却って劃然[かくぜん]と隔てる。つまり、人は、橋を渡ることによって知らず知らずのうちに、一つの他界に足を踏み入れる - 日常生活の拘束と秩序から人を解き放ち、ひと目盛だけ死と腐敗に近づけてくれるもう一つの世界に。橋とはまた、この他界と現世とのあいだに横たわる空間に架けられた記号でもあるからである。
荷風は、昭和七年(一九三二)の暮の頃にも一度、江東の街巷[がいこう]を散策している。十二月十九日、「是日風なく暖きを幸」にして、中洲病院の帰途、彼は「乗合自動車にてまづ砂町終点に至り、葛西橋の袂より放水路堤上を歩み、元八幡の祠[ほこら]を拝し、仙気稲荷の祠前を過ぎ城東電車の停留所に出」たのである。
彼はしかし、昭和八年(一九三三)になると、なぜか一度もこの地域に歩を運んでいない。江東散策が再開されるのは、翌九年(一九三四)一月十六日以降のことであり、このたびは散人の足跡は、江東、城東の地を離れ、北上してはるかに千住界隈にまで及んでいる。
案ずるにこのとき荷風は、偏奇館蔵板の私家版として翌年四月に丸善から刊行された随筆集、『冬の蠅』所収の一連の随筆を構想中で、両三年前の記憶を確かめようとして新大橋の彼岸に足を向けたのではないかと思われる。
その『冬の蠅』所収の随筆のなかに、「深川の散歩」と題された一篇がある。