2/2「橋の彼方の世界 - 江藤淳」新潮文庫 荷風散策 から

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2/2「橋の彼方の世界 - 江藤淳新潮文庫 荷風散策 から
 
《今日の深川は西は大川の岸から、東は砂町の境に至るまで、一木一草もない。焼跡の空地に生えた雑草を除けば、目に映ずる青いものは一ツもない。震災後に開かれた一直線の広い道路と、むかしから流れてゐる幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き走つてゐる処が、即ち深川だと云えば、それで事は尽きてしまふのである。 
災後、新に開かれたセメント敷の大道[だいどう]は、黒亀橋から冬木町を貫き、仙台堀に沿うて走る福砂通[ふくさどおり]と称するもの。また清洲橋から東に向ひ、小名木川と並行して中川を渡る清砂通[きよさどおり]と称するもの。この二条の新道が深川の町を西から東へと走つてゐる。また南北に通ずる新道にして電車の通らないものが三筋ある。これ等の新道はそのいづれを歩いても、道幅が広く、両側の人家は低く小さく、処々に広漠たる空地があるので、青空ばかりが限りなく望まれるが、目に入るものは浮雲の外には、遠くに架つてゐる釣橋の鉄骨と瓦斯[ガス]タンクばかりで鳶や鳥の飛ぶ影さへもなく、遠い工場の響が鈍く、風の音のやうに聞える。昼中でも道行く人は途絶えがちで、たまたま走り過る乗合自動車には女車掌が眠さうな顔をして腰をかけてゐる。わたくしは夕焼の雲を見たり、明月を賞したり、或はまた黙想に沈みながら漫歩するには、これほど好[よ]い道は他にないことを知つた。それ以来下町へ用足しに出た帰りには、、きまつて深川の町はづれから砂町の新道路を歩くのである。
歩きながら或日ふと思出したのは、ギヨーム、アポリネールの「坐せる女」と題する小説である。この小説の中に、曾てシヤンパンユの平和なる田園に生れて巴里の美術家となつた一青年が、爆裂弾のために全村尽く破滅した其故郷に遊び、むかしの静な村落が戦後一変して物質文明の利器を集めた一新市街になつてゐるのを目撃し、悲愁の情と共に又一縷[いちる]の希望を感じ、時勢につれて審美の観念の変動し行くことを述べた深刻な一章がある。
災後、東京の都市は忽ち復興して、其外観は一変した。セメントの新道路を逍遙して新しき時代の深川を見る時、おくれ走せながら、わたくしも亦旧時代の審美観から蝉脱[せんだつ]すべき時の来つた事を悟らなければならないやうな心持もするのである》
 
「深川の散歩」のこのくだりを一読したとき、私はある衝撃に胸を衝[つ]かれないわけにはいかなかった。これによって見ると、震災以後すでに十年以上を経過した昭和九年という年になっても、江東、城東の地にはなお「一木一草」もなく、「焼跡の空地に生えた雑草を除けば、目に映ずる青いものは一ツもない」という状態に放置されていたことが、あまりにもあからさまに描かれているからである。
これは直接には、震災の傷手[いたで]が癒える間もなく日本経済を痛撃した、昭和初年の銀行破綻と大恐慌の反映にちがいない。だが、それにしても荷風が描いている荒涼たる風景は、幾分小林清親[きよちか]の「両国焼跡」の凄惨[せいさん]さを想わせながら、それよりもなお一層乾き切った虚無感を漂わせている。
無論清親がこの有名な木版画に描いた両国の焼跡は、明治十四年(一八八一)一月十六日の大火に焼き払われた大川端の光景であり、荷風が叙述しているのは、大正十二年(一九二三)の関東大震災後十一年を経て、いまだに焦土のままにとどまっている深川の情景である。しかし、ここには清親の画面に小さく、黒く描き込まれて、亡霊のように烈風に吹かれている無数の被災者たちの人影がない。「眠そうな顔をして腰をかけてゐ」る乗合自動車の女車掌のほかには、この「広漠たる」焦土を彩[いろど]る人間の姿は絶無なのである。
これこそほとんど他界の風景そのものではないか。荷風は、新大橋ね彼岸に杖を曳きながら、実は死の世界に出逢おうとして歩きつづけているのではないか。『冬の蠅』にはまた、「元八まん」という一篇も収められている。
 
《偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆さうであらう。
わたくしが砂町の南端に残つてゐる元八幡宮の古祠[こし]を枯蘆[かれあし]のなかにたづね当てたのは全く偶然であつた。始めから之を尋ねやうと思立つて杖を曳いたのではない。漫歩の途次、思ひかけずその処に行き当つたので、不意のよろこびと、突然の印象とは思立つて尋ねたよりも遥に深刻であつた。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫たる暮烟につつまれて判然としてゐなかつたのも、印象の深かつた所以[ゆゑん]であらう。
或日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかつた新しい橋をわたつた。橋の欄[てすり]には豊砂橋[とよすなばし]としてあつた。橋向には広漠たる空地がひろがつて居て、セメントのまだ生々しい一条の新開道路が、真直に走つてゐたが、行手には雲の影より外に目に入るものはない。わたくしは其日地図を持つて来なかったので、この親道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかつたのであるが、然しその果[はて]はいづれ放水路の堤に行き当つてゐるにちがひない。堤に出さへすれば位置も方角も自然にわかる筈だと考へ、案内知らぬ道だけに却て興味を覚え、目当もなく歩いて行くことにしたのである。(中略)
空はいつの間にか暮れはじめた。わたくしが電報配達人の行衛[ゆくゑ]を見送るかなたに、初て荒川放水路の堤防らしい土手を望んだ時には、その辺の養魚池に臨んだ番小屋のやうな小屋の窓には灯影[ほかげ]がさして、池の面は黄昏れる空の光を受けて、きらきらと眩[まばゆ]く輝き、枯蘆と霜枯れの草は、却て明くなつたやうに思はれた。ふと枯蘆の中に枯れた松の大木が二三本立つてゐるのが目についた。近寄つて見ると、松の枯木は広い池の中に立つてゐて、其の木陰には半ば朽廃した神社と、灌木に蔽はれた築山がある。庭は随分ひろいやうで、まだ枯れずにゐる松の木立が枯蘆の茂つた彼方の空に聳[そび]えている。垣根はないが低い土手と溝とがあるので、道の此方[こなた]からすぐに境内へは這入れない。
わたくしは小笹の茂つた低い土手を廻って、漸く道を求め、古松の立つてゐる鳥居の方へ出たが、其時冬の日は全く暮れきって、軒の傾いた禰宜の家の破障子に薄暗い火影[ほかげ]がさし、歩く足元はもう暗くなつてゐた。わたくしは朽廃した社殿の軒に辛くも「元冨岡八幡宮」といふ文字だけを読み得たばかり。境内の碑をさぐる事も出来ず、鳥居前の曲った小道に、松風のさびしい音をききながら、もと来た一本道へと踵[きびす]を回[めぐ]らした。
 
死の世界が、更にもう一つの水の流れと接している場所には、元八幡の「朽廃した」祠があった。これは果たして蘇生の端緒であるのか、あるいは腐敗の象徴なのだろうか?
帰途についた荷風散人は、「小笹と枯芒の繁つた道端」に、近頃建ったらしい「二軒つづきの平家の貸家」を認める。その貸家の格子戸を開けて出て来たのは「シヨオルを肩に掛けながら」現れた一人の女である。女は散人を追い越して、足早に歩いて行く。

《......先へ行く女の姿は早くも夕闇の中にかくれてしまつたが、やがて稲荷前の電車停留所へ来ると、其女は電柱の下のベンチに腰をかけ、電燈の光をたよりに懐中鏡を出して化粧を直してゐる。コートは着てゐないので、一目に見分けられる着物や羽織。化粧の様子はどうやら場末のカフエーに居る女給らしくも思はれた。わたくしは枯蘆の中から化けて出た狐のやうな心持がして、しげしげと女の顔を見た。
電線の鳴る音を先立てて、やがて電車が来る。洋服の男が二人かけ寄つて、ともどもに電車に乗り込む。洲崎大門前の終点に来るまで、電車の窓に映るものは電柱につけた電燈ばかりなので、車から降りると、町の燈火のあかるさと蓄音機のさわがしさは驚くばかりである。ふと見れば、枯蘆の中の小家から現れた女は、矢張早足にわたくしの先へ立つて歩きながら、傍目も触れず大門の方へ曲つて行つた。狐でもなく女給でもなく、公休日にでも外出した娼妓であつたらしい。わたくしはどこで夕飯をととのへやうかと考へながら市設の電車に乗つた》
 
やはり死の世界の「枯蘆の中」から姿を現わしたのは、超倫理的な腐敗と解体の象徴だったのである。しかもこの女は、そのことを自他の前で確認するかのように、彼女の所属するもう一つの他界 - つまり洲崎遊郭の大門のなかの時空間に吸い込まれて行く。
このように、荷風にとって「深川の散歩」とは、散歩であると同時に実は日常生活から他界への離脱であり、更には他界から日常生活への復帰であった。「どこで夕飯をととのへやうかと考えながら市設の電車に乗った」とき、荷風は漸く秩序と拘束と規律のリズムの支配する倫理的な時空間に戻りつつあったのである。『断腸亭日乗』によれば、荷風が「枯蘆の間」から元八幡宮の祠を発見したのは昭和七年一月八日のことであった。