「後輩「ひさし君」 - 菅原文太」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から

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「後輩「ひさし君」 - 菅原文太」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から
 
あの頃の高校生活は、なぜあんなに自由だったのだろうか。今でも時々そう思って奇妙な気がする。
世の中は戦後の混乱を抜け出したばかりで、未完成のジグソーパズルのようだったし、大人たちは、ノックアウトされて呆然と控え室にすわりこんでいるボクサーのように士気を喪失していた。
われわれ少年たちも、多少の鬱屈した精神を抱えこんではいたが、進駐軍とジャズ、民主主義のかけ声の中で、負けを知らない四回戦ボーイのようにチャンピオンを夢見ていたのかもしれない。
昭和二十二年五月、父が中支から復員しつきた。当時、私は築館中学の寮生活をしていたが、突然寮に面会に来て、部屋に上がらずに玄関のあがりがまちに腰かけ、ぼそぼそと二言、三言話をしたきりで、当時東京に住んでいた母親のもとへあわただしく帰っていった父の姿が、強いて言葉で言えば怨[うら]みがましいようななつかしいような気分とともに、鮮明に記憶に残っている。
昭和二十四年、両親の落ち着き先の仙台に呼ばれて、私は仙台一高に転校した。井上ひさしさんは、その一年後に入学してきたわけだが、当時フランス系修道院のラサールホームから高校へ進学する者は皆無で、ひさしさんの才を惜しむラサールホームの先生方のあと押しがあったと後年聞いた。
二年の時、友人が新聞部の編集長になったのをきっかけに、われわれの仲間数人が新聞部を占拠するようになる。当時部長は、私とひさしさんの共通の国語の教師であった菅野先生だった。授業の半分は映画の話であり、文学の話であり、その先生の影響もあったのか、ひさしさんも新聞部の悪仲間の一人になることになる。
菅野先生の回想によれば、当時のひさしさんは、今もそうだが、まじめで読書家で、ただ、今とちがうのは小説は書かず評論ばかり書いていた。「ヴィクトル・ユーゴー論」がなかでも力作だったということだ。今それらが残っていれば、井上文学の研究者を大いに喜ばせたことだろう。ひさしさんが新聞用にもちこんだ初原稿を、私が目の前で破りすてたと彼は会う度に言うが、その原稿は、ひょっとしたら前述のユーゴー論だったかもしれず、だとしたら、文学史上、大変な罪を犯したことになる。
ラサールホームでフランス人の先生からフランス語を学び、一高でもフランス語を専攻していた彼が、われわれ新聞部員がストーブをかこんで「ラ・マルセイユズ」を大合唱するとき、東北なまりのフランス語をなおしてくれるのが常だった。おかげで今も、「ラ・マルセイユズ」はそらんじている。
当時のひさしさんは、あまり友だちづきあいをする人ではなかったように記憶している。明るくて人なつこい性格ではあったが、およそ群れるということはしなかった。当時、私とひさしさんの二人に限ったことではなかったのだろうが、つきあいたくてもつきあう金と、あたたかい家庭がなかったというのも遠因の一つだったかもしれない。
一高には札つきの、名画座の常連が何人かいて、ひさしさんの年間三百本という記録は有名だった。自由と解放の波にのって続々と輸入され始めた名画を見たあくる日、新聞部の菅野先生をかこんで映画の感想、恋愛論、芸術論に口角泡をとばす中で、下級生の彼は片すみでわれわれのたわいのない話を黙って聞いていた。
菅野先生の家は、われわれ部員の梁山泊になっていて、合成酒をぶらさげて押しかけ、一ぱしの酒飲みぶった「水滸伝」の豪傑気どりの中で、下級生の彼の方が大人の風格を漂わせていた。先日、菅野先生にお会いしてその話をしたら、「お前たちは豪傑ではなく、今で言えば単なる非行少年だよ」と言われ、大笑いした。
今でもひさしさんに会うと、「あの頃も先輩は短気でかっとしやすかった」と言われる。自分では気弱な文学少年だったと思っていたのだが、論の最中に「先輩、それは違いますよ」と言われ、すぐムッとしたところをみると、これはひさしさんの記憶の方が正しいと言わざるを得ない。「気弱な文学少年だった」という私の話を長年、疑っていた女房は、ひさしさんのこの証言に、「やっぱり!」と胸のつかえをおろした。
後年のことだが、私は早稲田大学を除籍になる前の二十九年頃、大学の先輩の松尾さんというフランス座の舞台監督を頼って文芸部に入ろうと数回通った。松尾さんにおごられて居酒屋で飲んだ折り、同席していたフランス座の花形だった八波むと志さんに、「お前、役者にならんか」と誘われた。文学の才能があると自負していた私はまたムッとして、それきりフランス座に行かなくなってしまった。
それと前後して、ひさしさんはフランス座の文芸部員となり、大作家への道を歩むことになった。