「養老訓抜き書き - 養老孟司」新潮文庫 養老訓 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200511083344j:plain


「養老訓抜き書き - 養老孟司新潮文庫 養老訓 から
 
家は広いほうがいいか

長生きを考えると、年をとってお金がなくなったらどうしようという恐怖があるのはわかります。しかしこれは今に始まったことではありません。論語にも、年をとったら金を貯めるようになるから気をつけろという教えがあります。
年をとったら不安になるのは当然で、それは昔も今も変わりません。気をつけろというのは、金で過剰に不安を抱えるようになったら人間がダメになるということです。おそらく、不安に備えることよりも、その弊害が目立つのでしょう。
今の日本では老人がやたらに金持ちです。その背景にあるのも、老後不安でしょう。ところが、老後といっても本人たちが思うほど長くはありません。だからもっとどんどん使ってもいいのだけれど、不安があるからそうはならない。それで貯金を持ったまま死んでいる人がたくさんいるのではないかと思う。結局、残されたお金を政府が使ってしまいました。郵便貯金です。
金を稼ぐには教養はいらないけれど、金を使うには教養がいるのです。
岡野雅行さんという町工場の社長さんが、会社をもっと大きくしないのかと聞かれて、「会社が一〇倍大きくなってもしかたがない。ソニーの社長だって昼飯を一〇杯食えるもんでもないだろう」と言っていました。
われわれくらいの年代のある種の人は皆、こういう考え方をするのです。これがまっとうです。
ビル・ゲイツだって人の何倍も飯を食えるわけではありません。ところがそこを誤解している人が多い。お金がたくさんあったら、無限にいろいろなことができるかのような錯覚を持っている。だいたい、お金は人の幸せとか不幸せとかを考えちゃいません。実体がないんだから当たり前です。
それこそ生物としての限界があるのです。家が広ければ掃除が大変になるだけです。
 
「お金を使わない」という幸せ

年をとったら、むしろ小金を貯めこむのはやめたほうがいいのではないか、と思います。お金は使えば人に回る。貯めずに使えば世のため、人のためになります。
お金を個人的に儲けて貯めこんでしまう人は、ある意味で社会の循環を遮断している人ともいえるわけです。うまく投資して自分もみんなも大喜び、となるのならばいいのですが、それはなかなか難しいことです。
たとえばホテル・ニュージャパンで有名になった横井英樹さんあたりを見ればその難しさはよくわかります。火災のあとに跡地をずっと利用せずに放置した。東京の一等地に、あれだけの空き地を塩漬けにしてしまったのです。
そこで循環を止めてしまったロスは大きかったことでしょう。美観、治安あらゆる観点からしてあんなにいい土地をずっと放っておくというのは問題でした。
お金を貯めることは、必ずしも美徳ではありません。
ただし私のように「銀行に預金があると、誰か他の人がその分困っているのではないか」と考えるのはちょっと行き過ぎです。生活者としての問題があるので、女房に怒られたものです。
そもそも私は基本的にお金を使わないでできることが一番幸せだと思ってきました。
離島で虫のDNAを調べようと思ったのに、必要なものを忘れてしまったことがあった。それで若い人に頼みごとをしたら、交通費、宿泊費、レンタカー代を含めて一五万円かかった。それで私の代わりに行ってもらった。こういうふうにお金はかかる。これが私にとってはいい使い道です。
金を稼ぐのに教養はいらないけれど、金を使うには教養がいる。成金がどうしようもないのは、そこでしょう。
最近よく耳にする「退職金運用術」のたぐいは、減らさないようにするという意味なのでしょう。しかし貯めこんで減らさないようにするだけだったら、持っている意味があまりない。金というのは物体ではなくて、それを使う権利のことです。その権利を行使しないで死ぬ人が今は非常に多い。
 
不信は高くつく

自分が年をとって子どももいなかったりしたら、どうやって食っていけるのかという不安を持つ人がいるのは当然のことです。うちの母親は野垂れ死にすると公言していたけれども、そういう人はあまりいません。見習う必要もありません。
ただし、実際には日本は老人が飢え死にするシステムになっていません。かたくなに援助を拒んで死ぬ人はいるけれども、基本的には誰かが何とかしてくれることになっているのです。
ホームレスでもペットを飼い、テレビを見るという生活ができるのです。
にもかかわらず、多くの人が「誰が俺の面倒を見てくれるのか」と不安になっています。
高級な介護老人ホームに入ろうと考えたとします。しかしそこに前金で何億円も払ったとして、約束を守ってくれるかどうか、疑えば不安になるでしょう。じゃあそのために保険として弁護士にお金を預けたとして、今度はその人を信用できるのか。
不安が連鎖するときりがありません。不信は金、コストがかかるものなのです。
私は人を信用するのがいちばん安い、結果的に得をする道だと思う。
もちろん誰も彼も信用する必要はありません。それではオレオレ詐欺に引っ掛かり放題ですからね。でも自分が信用できると思った相手はきちんと信用する。
かつては「かかりつけの医者」というのがいて、それを信用した。それで医者が間違ったら仕方がないね、ということでした。それをやらないようになってからややこしくなった。セカンドオピニオンを求めたら、サードオピニオンが欲しくなるのです。
セカンドオピニオンにも意味がないわけではないけれども、日常的には必要がないものです。九割九分の医者がこう言うというケースでは要らない。その九割九分の医者が言うことが間違っている場合ももちろんあるけれど、それが間違いということでいちばんありえるのは、本当は治療が要らないという場合、つまり「どうしようもない」か「何もしなくても治る」という場合です。
私は今、ほとんど薬も飲まなければ、医者にも行きません。少々具合が悪くても九割九分治るに決まっているからです。