1/2「葛飾土産(其の二) - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上) から

f:id:nprtheeconomistworld:20200514084123j:plain


1/2「葛飾土産(其の二) - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上) から
 
千葉街道の道端に茂っている八幡不知[やわたしらず]の藪の前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条[ひとすじ]の細流に出会う。
両側の土手には草の中に野菊や露草がその時節には花をさかせている。流の幅は二間くらいはあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川[ままがわ]の流の末だということだけは知ることができた。
真間川はむかしの書物には継川ともしるされている。手児奈[てこな]という村の乙女の伝説から今もってその名は人から忘れられていない。
市川の町に来てから折々の散歩に、私は図[はか]らず江戸川の水が国府台[こうのだい]の麓の水門から導かれて、深く町中に流込んでいるのを見た。それ以来、この流のいずこを過ぎて、いずこに行くものか、その道筋を見きわめたい心になっていた。
これは子供の時から覚え初めた奇癖である。何処ということなく、道を歩いてふと小流[こなが]れに会えば、何のわけとも知らずその源委[げんい]がたずねて見たくなるのだ。来年は七十だというのにこの癖はまだ消え去らず、事に会えば忽ち再発するらしい。雀百まで躍るとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである。
かつて東京にいたころ、市内の細流溝渠について知るところの多かったのも、けだしこの習癖のためであろう。これを例すれば植物園門前の細流を見てその源を巣鴨に探り、関口の滝を見ては遠きをいとわず中野を過ぎて井の頭の池に至り、また王子音無川[おうじおとなしがわ]の流の末をたずねては、根岸の藍染川[あいぞめがわ]から浅草の山谷堀[さんやぼり]まで歩みつづけたような事がある。しかしそれはいずれも三十前後の時の戯れで、当時の記憶も今は覚束なく、ここに識す地名にも誤謬がなければ幸である。
真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたりに至ると、数町にわたってその堤の上に桜の樹が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、真間の桜の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た桜と同じくらいかと思われる。空襲の頻々たるころ、この老桜がわずか[難漢字]に災[わざわい]を免れて、年々香雲あいたい[あいたい]として戦争中人を慰めていたことを思えば、また無量の感に打たれさるを得ない。しかしこの桜もまた隅田堤のそれと同じく、やがては老い朽ちて薪となることを免れまい。戦敗の世は人挙[ひとこぞ]って米の価を議するにいそがしく、花を保護する暇[いとま]がないであろう。
真間の町は東に行くに従って人家は少く松林が多くなり、地勢は次第に卑湿となるにつれて田と畠がつづきはじめる。丘阜[きゆうふ]に接するあたりの村は諏訪田とよばれ、町に近いあたりは菅野[すがの]と呼ばれている。真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初て夏は河骨[こうほね]、秋には蘆[あし]の花を見る全くの野川になっている。堤の上を歩むものも鍬か草籠をかついだ人ばかり。朽ちた丸木橋の下では手拭を冠[かぶ]った女たちがその時々の野菜を洗って車に積んでいる。たまには人が釣をしている。稲の播[ま]かれるころには殊に多く白鷺が群をなして、耕された田の中を歩いている。
一時[ひとしきり]、わたくしの化寓していた家の裏庭からは竹垣一重を隔て、松の林の間から諏訪田の水田を一目に見渡す。朝夕わたくしはその眺望をよろこび見るのみならず、時を定めず杖をひくことにしている。桃や梨を栽培した畠の藪垣、羊の草をはんでいる道のほとり。いずこもわたくしの腰を休めて、時には書を読む処にならざるはない。
真間川の水は絶えず東へ東へと流れ、八幡から宮久保という村へとつづくやや広い道路を貫くと、やがて中山の方から流れてくる水と合して、この辺では珍しいほど堅固に見える石づくりの堰に遮[さえぎ]られて、雨の降って来るような水音を立てている。なお行くことしばらくにして川の流れは京成電車の線路をよこぎるに際して、橋と松林と小商いする人家との配置によって水彩画様の風景をつくっている。