「めぐりあい-畏友「彼」 - 遠藤周作」集英社文庫 お茶を飲みながら から

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「めぐりあい-畏友「彼」 - 遠藤周作集英社文庫 お茶を飲みながら から

昭和二十五年の六月 - というから、もう随分昔の話だ。私はまだ大学を出て間もなかった。ひょんなことから仏蘭西留学が決まり、現在、慶應の文学部長である三雲夏生君やその他、二人の日本人学生とマルセイエーズ号という仏蘭西船で横浜を出帆した。
留学といえば聞こえはいいが、昭和二十五年の日本はまだ戦争犯罪国である。世界のどの国とも国交は恢復[かいふく]しておらず、大使館も領事館も行く先々の国にはない。私たちのビザも一年がかりでもらい、パスポートには進駐軍の認定判が押してあった。そして私たちが乗りこんだのはマルセイエーズ号の四等 - 船底の暗い部屋だった。
その部屋ではじめて彼とあった。彼は私たち留学生とはちがい、東大の哲学を出た後、カトリックの神父になることを志して、仏蘭西カルメル会で修行するためにこの船に乗っていたのである。
一カ月の船旅は戦犯国民五人の日本青年たちにとっては決して楽しいものではなかった。日本が侵略したフィリピンやシンガポールでは憎悪と怒りの眼が我々を待っていた。マニラでは生命の安全さえ保証できぬと船長に言われ、六月のすさまじい暑さのなか、私たちは船底に三日間、かくれていた。
彼は神父になるというのに、いわゆる私の嫌いなアーメン臭さは何処にもなかった。我々と同じように一等船客の飲み残した酒に酔い、我々と同じように酔っぱらって流行歌を歌った。そのくせ、夕暮れ、人影のない甲板で彼が一人、ロザリオをまさぐって祈っている姿を私は何度も見た。
マルセイユでリヨンに向かう私たちはボルドー修道院に赴く彼と別れ、それから一年、いくら手紙を出しても返事がこなかった。修道会のなかでも、とりわけ修行のきびしいカルメル会では滅多に手紙を書くことも許されないことを私たちは知った。
二年目の大学の夏休み、私は自分の勉強もかねてボルドーに出かけた。そして彼の修行している修道院をたずねた。
修道院は荒涼とした山のなかにあった。私は彼の名を言い、面会を求めたが、修行中の修道士には面会は許されぬと拒まれた。哀願し、懇願した揚句、やっと午後三時、彼が畠仕事をしている時、一分間だけ会うことを許された。
山のなかで午後三時まで時間をつぶし、鍬をふるっている彼に会った。あまりにきびしい修行に彼は疲れ果てていた。一分はすぐにたった。話もできなかった。その夜、午前二時、私はその修道院の聖堂で他の修道士と祈っている彼のうしろ姿だけを見てリヨンに戻った。
私が帰国してから二、三年たって彼は日本に戻った。そして東京の郊外の小さな町の神父になった。私は彼の修行や学識が日本の教会で正当に扱われていないことに不満だったが、それは私たちの文句を言うべきことではなかった。
そのかわり、私は彼を自分の友人に次々と紹介した。三浦朱門が彼の話を聞き、やがて洗礼を受けた。劇作家の矢代静一も彼と交際するようになった。女流作家の高橋たか子さんや大原富枝さんも彼の手によってカトリックに改宗した。河上徹太郎先生も彼と一緒に飲むことを悦んでくださった。
十数年前、私が大病を患い、三度目の手術を待っていた時、見舞いにきた彼はしばらく黙っていたが、急にこう呟いた。「あとは引きうけるし、祈っているから万一のことがあっても、安心して死んでくれな」
私は黙っていたが、決してその言葉を聞くのは不快でも苦痛でもなかった。むしろ神父である彼の口からそれを聞いた時、ふかい友情を感じた。人と人とのめぐりあいを今の私は偶然の出来事とは思っていない。人と人とのめぐりあいの奥に、我々をこえた神秘な意志が働いていると考えざるをえない。昭和二十五年、暗い四等船室で彼と会ったことは、私の人生に大きな痕跡を残した。彼の名は書かない。そういうことを嫌がる神父だからである。