1/2「第2章鶴見線 - 宮脇俊三」河出文庫 時刻表2万キロ から

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いつでも行けると思うと、いつまでも行かない。東京の人は、いつまでたっても泉岳寺を訪れないし、東京タワーにも昇らない。こういうところは修学旅行で来た生徒のほうが知っている。
私はたまたま東京タワーには昇ったことがあり、船や都心を見下ろしながら案外おもしろいところだと思ったが、考えてみると、それよりまえに通天閣に昇っていたし、さらにそれ以前にエッフェル塔に昇った。
鉄道にしてもおなじで、北海道の果てから九州の南端まで相当な足跡をのこしている人でも、鶴見線には乗らない。関西在住の人で尼崎-塚口間や兵庫-和田岬間に乗った人は少ないだろう。いずれもその気になれば、東京駅や大阪駅から二時間くらいで行ってこられる線である。
用がなけれは乗る必要はないから、鶴見線に乗らなくてもかまわないけれど、私などのように富山港線だと眼の色が変るが鶴見線には乗ったことがない、では心掛けの問題になってくる。なんだか、出張だと張り切るが本社ではさっぱり仕事をしない社員みたいで、よくない。
富山港線の一部を乗り残したりした日から三日後の土曜日、私は青梅線の御嶽[みたけ]-奥多摩間一〇・〇キロ、五日市線一一・一キロ、横浜線の橋本-八王子間八・八キロに乗りに出かけた。遠くへ行きたい、などと浮わついていたのがいけなかった、まず地道に足元から固めようと、心を入れ替えたその第一歩であった。
青梅線の起点の立川から牛浜までは、戦時中の勤労動員で毎日通わされた区間なので、その変貌ぶりに眼を見はったし、御嶽から先きは、鉄道がなかったころに歩いたことのある区間なので懐しかったが、あまりおもしろくもなかった。東京から近ずきるためでもあるが、それより車両の国電型が致命的であった。やはり四人ずつのボックスでないと気分が出てこない。五日市線横浜線もどうようである。が、とにかくこの三線に乗ったので東京都内の未乗区間はなくなった。

鶴見線にはその翌月の一〇月二五日に乗った。
まず小田急で登戸に行き、南武線の尻手[しつて]で下車した。尻手から浜川崎までは南武線の枝線で、この四・一キロの区間にもまだ乗ったことがない。
尻手では前の電車が出たばかりで、ずいぶん待たされた。時刻表では東京・大阪の近郊区間、いわゆる国電区間については、初電・終電の時刻以外は運転間隔しか記していない場合が多い。五分か一〇分も待てば電車が来る線区ならそれでよいが、尻手-浜川崎間は「この間20~30分毎」となっている。まことに味気ない。時刻表の愛読者からすると、こういう点が国電区間の魅力をなくす要員でもあり、不便でもある。
浜川崎は貨物の発着トン数がかつては全国第一位、昭和五一年度第四位の駅で、南武線のホームは貨物線の脇役のような位置にあった。行き止まりの南武線と粗末な駅舎しかないので、「鶴見線は?」と駅員に訊ねると「道路の向う側」と言う。なるほど車の行き交う道路を挟んで鶴見線のホームが見えている。ひとつの駅が一般道路で分断されているのは、かつて私鉄の南武鉄道線、鶴見臨港鉄道線に分かれていた経緯からであろうが、珍しい。
車に気をくばりながら道路を渡る乗客にひきかえ、貨物線は線路がつながっていて、道路を踏切で遮断する。ここでは貨物列車が優位に立っている。私の小学校時代、地理の時間に先生が、「鉄道はなんのためにあると思うか」と質問したことがあった。手があがり、当てられた生徒が、「人を乗せるためです」と答えた。
「ちがう」と先生が言った。もう手はあがらなかった。「鉄道は貨物を運ぶためのものだ。人間なんかついでに乗せてもらっているのだよ」という意味のことを先生は説明した。私たちは子供心に情ない思いがして、しゅんとなった。なにしろ当時の子供はみんな汽車と双葉山のファンで、休み時間になると両手を脇腹の横でぐるぐる回し、シュッシュッと唾液をとばしながら汽車ごっこをやり、靴の先きで丸をかいて相撲をとっていたのである。夏休みに超特急「つばめ」に乗せてもらった奴などが出現すると、後光がさしているかのようにまぶしくて羨ましかった。
たしかに日本の鉄道史は貨物輸送史であったと言ってもよいかもしれない。岩倉具視創立者とする民鉄の日本鉄道が上野-青森間を全通させたのは明治二四年であるが、これによって今後は東北に飢饉があっても餓死者は出るまいと安堵したという。
いったん南武線の改札を出るけれど、乗換えだから乗車券を渡す必要はない。こういう駅の改札口の機能はどうなるのだろうか。
鶴見線は工場地帯への通勤線で、昼間は運転間隔が間遠いが朝夕は頻繁にある。すでに夕方なので扇町行はすぐ来た。モハ72の古い国電の三両連結であった。
工場の引込線のようなところを右へ右へとカーブしながら昭和を過ぎ終点の扇町に着く。無人駅であるが車掌は集札せず、「ご使用ずみのきっぷはこの箱の中にお入れください」と書かれた箱が置いてある。
鶴見線は鶴見-扇町間七・〇キロが幹線で、途中に二本の枝線がある。武蔵白石-大川一・〇キロと浅野-海芝浦一・七キロとである。
扇町の自動券売機で鶴見までの乗車券を買い、三つ目の武蔵白石で降りる。大川行のホームは、本線に寄り添うのを遠慮したかのような位置にあり、幅二メートルたらずの細く短いホームで、いかにも小ぢんまりしている。それでも鉄骨製の上屋はついていた。電車は鋲の頭が外側に点点と並んだ鎧のような外観のモハ12で、これがたった一両で武蔵白石-大川間一・〇キロを行ったり来たりしている。鶴見線の一部であるが、区間としては国鉄全線中の最短てなっている。幅が狭いので高く感じるホームから車内に入る。通勤の流れとは逆なので、乗客は一人もいない。京浜地区にこんな線があるのかと不思議な気がしてくる。
発車して右に大きく曲って運河を渡り、工場の塀の隅に祭られた稲荷の赤い鳥居をかすめたかと思うともう終点大川でなんということもなかった。
工場帰りの乗客がどっと乗りこみ、すぐに引き返すので、私は切符を買わずに車内にいた。客がたくさん乗って重くなったせいか、帰りは線路の継目ごとにゴツンゴツンと固い衝撃が踵に伝わってくる。降りてからあらためて線路を見ると、道床砂利[バラスト]が薄いようであった。
武蔵白石のつぎは安善[あんぜん]で、安田善次郎の名をとって名づけたという。国鉄の駅名には人名に因んだものがいくつかあり、いちばん古いのは、おそらく阿部比羅夫の足跡を留める函館本線の比羅夫[ひらふ]であろうが、この安善はもっとも現代に近い人名駅と思われる。鶴見線の沿線は工業地帯建設のための埋立地であるから、財閥の創始者の名前がつけられたのであろう。
安善のつぎの浅野も同様で、これは浅野総一郎。海芝浦へはここで乗換える。浅野の駅は東と南へ分かれる本線と枝線の間に設けられているのでホームは三角形になっている。三角形の底辺の方は広すぎるからか花壇がある。新しい立派な駅舎もあったが改札掛はいないようで、例の集札箱が置いてある。