2/2「第2章鶴見線 - 宮脇俊三」河出文庫 時刻表2万キロ から

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2/2「第2章鶴見線 - 宮脇俊三河出文庫 時刻表2万キロ から

鶴見から来た海芝浦行は発車するとすぐ運河に沿い、大きな荷船の行き交うのが見られる。つぎの新芝浦は駅の出口と工場の入口が向かい合っているだけで、ほかにはなにもない。電車はこの工場の中に突っこむように右に曲り、広い京浜運河に接して停車した。終点の海芝浦である。対岸は新しい埋立地の扇島で、同一規格の石油タンクが整然と並んでいり。
ホームの鉄柵ごしに下を覗くと、一〇メートルばかりの真下に海面がある。信越本線青海川[おうみがわ]なども海に突き出たような駅だが、本当の真下に海面の見える駅はこの海芝浦だけであろう。こうやって欄干から下を覗いていると、碇泊中の汽船の甲板から海を見ているような錯覚をおぼえる。しかも海水は意外に汚れていない。化学的には汚染されているのだろうが浮遊物はまったくなく、そこいらの海水浴場などよりよほどきれいに見える。
海芝浦発の電車はすべて鶴見行なので浅野で乗換えなくてよい。浅野から二つ目の鶴見小野で工場地帯は終り市街地になる。ここから鶴見までの一・五キロは二〇年前に乗ったことがある。
終着鶴見のホームは高架で、地平にある京浜東北線用のホームに行くには、いったん改札口を出る仕掛けになっていた。私はそれで納得した。鶴見線の各駅は無人または無改札掛で、降りる客は切符を備えつけの箱に入れ、乗る客は自動券売機使用となっていた。それでいて車掌は集札も検札もしない。定期券の客がすべてといってよい線区ではあるが、あまりに開放的にすぎはしまいか、と疑問が生じていたからである。その疑問がこれで解けた。鶴見線には一三の駅があるが、要するに入口も出口も鶴見駅だけという考え方と構造になっているのである。浜川崎では南武線に接続しているが、南武線の改札口には駅員がいるから無断で流出はできない。いわば有料遊園地の出入口にあたるのが鶴見駅なのである。なるほどと私は感心した。だがしかし、鶴見線内で乗り降りする客の切符の有無についてはどう処置しているのだろう。たまには車内検札をするのだろうか。あんなに駅間距離が短くては車掌は扉の開閉と車内放送に忙しく、とても検札の暇などなさそうだが。
しかし、かような詮索はやめることにしよう。国鉄当局を大らかにさせるだけの実績が乗客の側にあるのだろう。
ところで私といえば、扇町から鶴見までの五十円区間を買っただけで大川と海芝浦まで足を伸ばし、そ知らぬ顔で鶴見の改札口を出させてもらった。多少気がとがめる。しかし、大川でも海芝浦でも駅の構外へは出ずにすぐ引き返したから、たぶん不正乗車の扱いはされないと思う。国鉄の「旅客営業規則」の二九一条には、
「旅客(定期乗車券又は回数乗車券を使用する旅客を除く。)が、乗車券面に表示された区間外に誤って乗車船した場合において、係員がその事実を認定したときは、その乗車券の有効期間内であるときに限って、最近の列車等(急行列車及び急行自動車を除く。)によって、その誤乗区間について、無賃送還の取扱をする。」
とある。誤乗かどうかは私自身でも定かではない。
とにかくこれで、鶴見線の残存区間八・二キロと南武線ね尻手-浜川崎間四・一キロに乗り終えた。国鉄全線の〇・〇六パーセントで微々たるものだが、わずか一時間半で四本もの未乗区間に乗り、残存区間は大台を割って九九になったのだから、私は満足であった。