「時間の消耗としての消費 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

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「時間の消耗としての消費 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

これまでの観察をひと言でまとめれば、要するに、人間の消費行動はおよそ効率主義の対極にある行動であり、目的の実現よりは実現の過程に関心を持つ行動だ、といふことが明らかになったと胃へる。いはば、消費とはものの消耗と再生をその仮りの目的としながら、じつは、充実した時間の消耗こそを真の目的とする行動だ、といひなほしてもよい。
さうして、消費をこのやうに定義したとき、われわれははじめてそれを生産から明確に区別することができ、したがって、「消費社会」と生産優位の社会を対置して、そこに意味のある区別を立てることもできるだろう。すなはち、消費とは反対に、生産とはすべて効率主義に立つ行動であり、過程よりは目的実現を重視し、時間の消耗を節約して、最大限のものの消耗と再生をめざす行動だ、と定義することができる。生産と消費とは、ものの消耗と再生といふ点では同一の構造を持つ行動であるが、前者はその目的のために過程を完全な手段と化し、後者は逆に目的を過程のために従属させる、といふ点で正反対の行動なのである。
この定義にしたがふと、たとへば、同じ食物の摂取にしても、たんなる栄養物をがつがつと口に運ぶのは、労働力の再生産といふ意味で、純然たる生産行為だと見なければならない。これにたいして、一見、生産そのもののやうに見える農耕にしても、ひとが日曜に楽しむ家庭菜園の場合は、目的である収穫よりもその過程が重視されるといふ意味で、一種の消費だとみることができる。そして、このやうに考へると、ふたつの例からも明らかなやうに、生産と消費とは、その意味においては対極的な行動であるが、その実態においては、中間にさまざまな混合形態を持つことになるであらう。通常の家庭における食事は、たぶん消費の色を強くおびた生産であらうし、家庭菜園の場合も、その収穫が重視されるにつれて、かぎりなく生産に近い消費になることができる。もっといへば、人間はすべての消費を生産の姿勢で営むこともでき、あらゆる生産を消費の姿勢で行なふこともできるのであって、さうであるからこそ、われわれは歴史上の社会を大別して、その全体を消費社会とか、生産優位の社会と呼ぶことが許されるのである。