「『赤い館の秘密』の秘密 - 赤川次郎」文春文庫 青春の一冊 から

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「『赤い館の秘密』の秘密 - 赤川次郎」文春文庫 青春の一冊 から

昨今のオペラブームは大変なもので、ここ何年か、毎年のように、欧米からのオペラハウスの引越し公演があり、 - それも二つも三つも - そろそろ飽和状態になろうか、というところである。
三万円とか四万円というチケットが、アッという間に売り切れるという現状には、つい何年か前まで、オペラはレコードでしか聞けないもの、と決めていたファンとしても、呆れてしまわざるを得ない。
もちろん、これは一時期のことで、これがおさまると、またもう少し地に足がついた形で、オペラファンも育ってくるだろう。
イギリスのグラインドボーン・オペラのレーザーディスクが十五枚組というセットで出て、結構よく売れたらしい。もちろん僕も買い込んだものの、忙しくてほとんど見ていないのだが。
この中に、グラインドボーン・オペラの歴史を紹介したディスクが入っていて、その広々とした庭園と敷地、レンガの館に集う、盛装した人々を見ている内、ふと思い出したのが、A・A・ミルンのミステリー『赤い館の秘密』のことだった。
A・A・ミルンは『熊のプーさん』でよく知られた童話作家である。『赤い館の秘密』はミルンの残した唯一のミステリーで、一応、イギリスミステリーの古典の一つとされている。「一応」と言ったのは、この作品が、たとえば、クリスティとか、クイーン、カーといったいわゆる「本格派黄金時代」の大家たちの作品に比べると、ミステリーとしては大分見劣りすると言わざるを得ないからである。
トリックにしても、少しミステリーを知っている読者なら、簡単に察しのつく程度だし、スリルとかサスペンス、といったピリッとした薬味も、至って薄味。 - 犯人の意外性もほどほどで、大きなドンデン返しがあるわけでもない。
しかし - それでいて、海外のミステリーに熱中した若い日に、一番くり返し読んだのが、クリスティでもクイーンでもなく、このミルンの『赤い館』だったのである。
なぜだろう?
グラインドボーンの田園風景を見ながら、僕は考えていた。
その魅力の一つは、ミルンの童話作家としての雰囲気が、このミステリーにも生きていて、従って、殺人事件が起っても、少しも現実味がなく、おとぎ話を聞いているように思えることだろう。
そして探偵と、ワトスン役のユーモラスなキャラクター設定。
もう一つ、文章の平易なことが、大きな魅力だった。といって英文で読んだわけではないが、実は作家自身が、〈まえがき〉の中で、同じことを易しい言葉で言えるのなら、何も好んで難しい言葉を使う必要はない、と書いているのである。
そして - 今、考えてみると、こういったミルンの『赤い館』の魅力は、実は僕自身の小説について、よく言われることなのだ。
もちろん、僕のミステリーがミルンの遺した、ただ一つの傑作ミステリーに比肩しうるなどは思ってもいにいが、少なくとも小説を書く上で、目指すところは似ているらしい。これは僕自身が今になるまで気付かなかったことなのである。
- よく
「あなたが影響を受けた作家は」
と、訊かれることがある。
その都度、クリスティとかグレアム・グリーンとか答えているが、実際には自分で意識していない作家こそ、一番多くを与えてくれているのかもしれない。
ミルンの『赤い館の秘密』の世界が、今もイギリスにそのままの形で残っているわけではないだろう。
しかし、少なくとも「よき時代」を形の上だけでも受け継いで行こうとする「ゆとり」には、本当に羨しいものがある。
何事にも「駆けつけ」なくては気のすまない日本人。 - オペラ、などという、何よりもゆとりを必要とする芸術さえ、競って見に行こうとする。
僕自身もその一人だから、何とも言えないけれども、少なくとも小説の中だけでは、「ゆとり」を描き続けたいと思う。
時にはマイナスの形で、つまり、なぜゆとりが持てないか、という形ででも、書き続けたいと思うのだ。
しかし、書き続けようとすれば、締切に追われる「ゆとり」のない暮しが、いつまでも続くだろう。
この矛盾を知らなかった時代が、僕にとっては「青春のよき時代」だったのかもしれない。