(巻二十五)回るほど色を失ふ風車(谷口一好)

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(巻二十五)回るほど色を失ふ風車(谷口一好)

5月28日木曜日

今日は結婚記念日である。ではあるが特に何もしない。

夕食は珍しくも牛肉(小間切れ)で肉じゃがであったが、だからと言うことではない。

「天気は良かったわね。」と言うので覚えてはいるらしい。

歳を重ねるにつれて、益々相方としてはよかったなと思う。そして先に逝かないとまずいと思う今日このごろである。

今日もまた叱る妻ゐて家涼し(永井良和)

朝のうちに冬物をクリーニング屋へ持って行った。ジャケット2着、ズボン2本、ジャンパー1着である。

散歩

クリーニング屋への往復では千歩もないので午後も散歩に出て、さくら通りを歩いた。

途中で自転車に乗る生足を視認、花は紫陽花が盛りだ。

本日四千二百歩。

どつと夏手足の長き女の子(武藤節子)

読書

「糟糠の妻 - 駒田信二」文春文庫 中国故事はなしの話 から

《「糟糠の妻」の「糟」とは、米のかす。「糠」とは、ぬかのこと。「糟糠」とは米のかすやぬかのような粗末な食べ物のこと。「糟糠の妻」とは、そういう粗末な物を分けあって艱難をともにしてきた妻という意で、この言葉の出典は『後漢書』の宋弘伝である。

宋弘は後漢光武帝(在位二五-五七)に仕えて、重厚正直[せいちよく]を以て知られた人で、建武二年(二六)には大司空(宰相)に任ぜられた。

同じ年に、光武帝の姉の湖陽公主が未亡人になった。光武帝は暇をみては姉をなぐさめていたが、あるとき、いっしょに朝臣たちのうわさをしながら、姉が誰に対して好意を持っているかをさぐってみたところ、湖陽公主は宋弘をほめて、

「宋弘の威容徳器は、群臣たちの及ぶところではありません」

といった。そこで光武帝は、

「わかりました。なんとかとりはからいましょう」

と約束した。

その後、光武帝は宋弘を召し出し、衝立[ついたて]のうしろへ湖陽公主を坐らせておいて、宋弘との問答をきかせることにした。光武帝はされげなく宋弘にたずねた。

「諺[ことわざ]に、貴[たつと]くしては交わりを易[か]え、富みては妻を易う、というが、それが人情というものだろうな」

すると宋弘はすかさずいった。

「いいえ、わたくしは、貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さず、ということを聞いております」

光武帝は衝立の方をふり向いて、湖陽公主にいった。

「うまくいきませんなあ」

〈帝、主(公主)をして屏風[へいふう]の後に坐せしめ、因[よ]って弘に謂いて曰く、「諺に言う、貴くしては交りを易え、富みては妻を易うと。人情ならんか」と。弘曰く、貧賤の交りは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さずと」。帝顧[かえり]みて主に謂いて曰く、「事諧[かな]わず」と。〉

「堂より下さず」とは、家から出さない。大切にして見捨てるようなことはしない、という意である。 》

宰相にならないと糟糠の妻などと言えないのかもしれない。少なくとも貧乏から脱出していなければ糟糠の妻などと言ってはまずいのだろうな。我が家の場合は糟糠の妻をしているが、性格上質素倹約をしているのであり、これは誠にありがたい。

糟糠の妻なれどまた冷奴(石井千里)

願い事-叶えてください。