「浅草のコトバと劇場のコトバ - 井上ひさし」中公文庫 パロディ志願 から

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「浅草のコトバと劇場のコトバ - 井上ひさし」中公文庫 パロディ志願 から

常に、そして際限もなく、新しさを競い合っているように思われる「新劇」の向うを張って、既に見捨てられた古いものをなにもかもよしとすり心算はすこしもないが、私にとってこの世で最高の劇場は、じつはすっかり寂れ果てた古い浅草にある。
その劇場の観客は、下駄ばきの地元の人々であり、集団就職で浅草の商店街に住込んでいる東北出身の若者であり、観音様にお参りを済ませた善男善女であり、銀座や新宿や六本木や赤坂でデートするのはなんとなく気恥しいと思い込んでいる総武線東武常磐線沿線の中小企業労働者のカップルであり、そしてその劇場の俳優は、これら浅草の通行人たちに、なにか怪し気な品物を売りつけようとして、ドスのきいた塩辛声を張り上げる時代遅れの大道香具師や大道商人たちである。
袋の中から奄美大島産の毒はぶを「さァ、いま出すぞ、これから出すぞ」と掛声ばかりで結局は出さず仕舞い、よろずの傷に神秘的速効力を発揮すると称する膏薬を売りつけて姿を消す男。アート紙に太い筆でヘビの絵を描きながら「きょうは気分がいいから、ひとつ投げ筆の極意を披露しよう。五メートル離れた距離から筆を投げ、一瞬のうちにヘビの目玉を描き入れてみせる」などと豪語して通行人をくぎ付けにし、いつまでたってもその極意の術は棚の上、災難除けにこれ以上のものはないといってヘビの絵を売って悠然と去る男。また「日本一の安売王」という看板を高く掲げて次から次へ品物を売りさばく男もいるが、その手口は巧妙をきわめ、「きょうは天気がいいから、そのうち、マイクロテレビでも売っちゃおうか」などとナゾめいたことをつぶやきつつ、腕時計やライターやトランジスタラジオなど、細かいものを売っておき、「さァ、いよいよ、本日の目玉商品だ。このボール箱の中にある電気製品が入っているが、後の楽しみがなくなるといけないから、何が入っているかはいわないよ。しかし、全然、いわないのは商人道にもとるからヒントをやろう。このスイッチさえ入れれば、家中の人がいろんなものを楽しめ、家庭がぱっと明るくなり、使わないときは床の間の飾りにもなる電気製品だ。これを二万円」ときり出しておいて、あとはどなたもご存知のように、三千円ぐらいまで、どんどんまける。通行人の心の中には先刻の「マイクロテレビ」というコトバが心のどこかに引っかかっているから、つい思わず手を出してしまうのだが、じつはボール箱の中身は電気スタンドなのだ。
たしかに、電気スタンドは電気製品で、その下で、家中の人が新聞やマンガ本やおしゃべりを楽しめるし、家庭がぱっと明るくなり、床の間の飾りにもなるであろう。しかし、これは詐欺であり、通行人が腹を立てないのは不思議といわねばならぬが、通行人はこの大道の俳優たちのコトバの芸を楽しんでいるのだ。
決して美声とはいえぬが、人をぐいぐい惹き込んで行く鍛えられ練りあげられた声にうっとりし、綿密に計算された売り方(プロット)に思わず財布のヒモをゆるめ、のべつまくなし飛出す駄洒落や地口や語呂合せに腹の皮をよじり、とても腹を立てる暇などはない。通行人は膏薬やヘビの絵や電気スタンドに金を投ずるのではなく、一時間か一時間半、自分を心から楽しませ、心の鬱積をゆるめ肩のこりをほぐしてくれた俳優たちへの礼金としてなにがしか支払うのだ。
コトバは数量は伝え得るが、もはや心と心を繋ぐことは不可能に近い、という悲観的な意見を抱く人々も、ちかごろ、すくなくないが、しかし、路傍に立ったひとりの男が、道行く人々をコトバだけを頼りに呼びとめ、コトバで擽り、コトバで笑わせ、コトバで楽しませ、コトバで納得させ、コトバで人を長い間くぎ付けにし、ついにはコトバで財布のヒモをゆるめさせるのを聞いていると、コトバに対する信頼が再び体中にあふれ出すのを覚える。そして、私はここにこそ劇場があると考えるのだが、そうなると、自ら俳優と名乗る人たちが耳ざわりな訓練のあまり行届かぬ声で、生硬この上ない栄養不良のコトバをがなり立てるあの「新劇」の劇場は一体なんであろうか。精神病のひとつに、新語・陳語を発明し、それらのコトバによって自分だけの絢爛たる宗教的世界を展開する詩語新作症(オノマ・ポエジー)というのがあるが、同じひとりよがりでも、こちらの方がはるかに新鮮で、人を魅了するところがある。
なぜ、新劇の「劇場」に、浅草の大道で耳に出来るあの活々したコトバがないかといえば(ということは私にいわせれば「演劇」がない、ということであるが)、西洋の演劇を手本として出発した築地以来の日本の新劇が、西洋の観念を輸入するついでに、それを支えるコトバまで取りこむことができると過信しているせいであろう。観念を持込むことが出来ても、コトバまで取込める道理はない。ごく少数の語学堪能者を除いて、だれにとってもコトバとは母国語のことなのだ。とすれば、生硬な翻訳臭を絶えず放ちつつ横行する「新劇コトバ」でものを考えている間は真の解決がないのは当然で、駄洒落や地口や語呂合せの可能性に富むわれわれの母国語を十分に駆使し、そういったコトバ遊びを通して、われわれの問題を考え、つきつめて行くよりほかに、私の方法はない。そして劇場に浅草の大道の気分を再現できた時こそ、コトバはコトバが指し示す実体と同じ重さを持つはずであり、「より人間らしく生きる」というコトバのために、死ぬことさえ覚悟できるのは、おそらくその時だろう。