「妖怪さま - 水木しげる」文春文庫 巻頭随筆4

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「妖怪さま - 水木しげる」文春文庫 巻頭随筆4

妖怪というものは、いかがわしく、とらえどころのないものである。逃げやすく、つかみにくい、そんなものもともといないのではないか、という人もあるが、いないとも言いきれない。
なにかいるのだ、古代の人が、カミとかヌシとか呼んでいたものと同じような種類のものではないかと思うのだが、それすらも、はっきりした話ではない。
妖怪を感ずるか、感じないかは、もって生れた“妖怪感度”ともいうべきものによると思うのだが、感度の高い人と低い人とがあるゆうな気がする。
ぼくが妖怪とつきあうようになったのは、四、五歳の頃からだと思うが、今から考えると、妖怪とつかあったというよりも、むしろ妖怪に愛された、という感じで、知らない間に幼少の頃から、かなり深入りしていた。近所の妖怪好きの、ばあさんに教えられたわけだが、小学校に入るまでに、四十ばかり知っていた。
従って、世界はこの世の外に、もう一つの世界、即ち不思議な世界があって、学校に入れば、そういう世界を教えてもらえると思っていた。
ところが、この世のことばかりでガッカリしたが、先生とか先輩に、お化けの話を質問したらすると「バカだ」といわれるので、世の中ってヘンだなアと思っていた。
妖怪というと、よくお岩の幽霊なんかまで仲間に入れられて気味悪がる人もいるが、お岩は幽霊であって妖怪ではない。妖怪とは「河童」とか「海坊主」とか「牛鬼[うしおに]」とかいったもので、こわいけれども、どことなく愛嬌のあるものだ。
長じて戦争に行ったが、南方のジャングルに、まだ形がしかと確かめられないが、妖怪めいたものが、うようよいるので、ぼくは妖怪というのは日本だけのものではないと感じた。土人に妖怪の話をすると、ビックリするほど、感度がよくておどろいた。
日本にかえって、紙芝居をかいていたが、普通の紙芝居は居眠りしたくなるのだが、どうしたわけか、お化けが出てくると、ふるい立つというのか、わけのわからない力が作用するのだろう、自分でも分らない位元気が出た。
従って、貸本マンガや雑誌マンガに転じても、どうしても話がお化けの方に行ってしまう。
山野とか古い家なぞに、もやもやとうごめいて、形の定かでないもの、そういったものに、ぼくは古い本で調べたり、自分で考えたりして形を作っていったわけだが、作ってゆく度に、闇にうごめいていたものが一つずつ解明されるような気持で、いつも、一匹発見するごとに、
「なんだお前だったのか」
と、つい一人言をいってしまうわけだが、形にすることによって、しかとつかまえた気持になるからおかしなものだ。
いや、それほど、つかみにくいもののようである。
「河童」の伝承にしても、必ずしも形がある場合だけでなく、ない場合もある、というようなことは、よくその間[かん]の事情を表している。
よくお化けの催物で、死んだり、事故にあったりする人がいる。
四、五年前だったが、三、四人たてつづけにお化けに関係した人が亡くなったことがあった。
ぼくも関係していたから、
「大丈夫かなア」と家族に云うと、「お父ちゃんは、大丈夫だ」と子供がいう。
「どうしてだ」というと、
「だって、お化けの仲間だもん」
なるほど、そういわれてみると、ぼくは、お化けを否定したりする人がいると、意味もなくイカリがこみ上げてきたりする。
知らない間に、子供たちがいうように“仲間”になっていたのかもしれない。
妖怪側としても、意味もなく誰にも知られずに山野にいるのでは面白くないらしく、なんとなくその存在を知ってもらいたいらしい。
そのためにも、人間を一人飼っておく必要があるのだろう。
考えてみると、いろいろ幸運をさずけてもらったり、経済的なことまで、いろいろ気を使ってもらったりしているようだ。
よく交通事故などで、同じ場所で同じ家族が死んだりする新聞記事をみて、ぼくはいつも、“運命”の不思議さを感ずるのだが、たしかに、人の運命は、自分一人で作るわけではなく背後になにかいるように思う。
妖怪は、ぼくにとっては“妖怪さま”であり、守り神でもあるようだ。
よく飼猫に食わしてもらった話をきいたことがあるが、妖怪に食わしてもらうという話は、ぼくが最初にして最後かもしれない。