「誰がために金はある - 邱永漢」中公文庫 金銭読本

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「誰がために金はある - 邱永漢」中公文庫 金銭読本

金の持っているいろいろな側面を書きながら、いつも頭に浮かぶことは、「いったい金は何のためにあるのだろうか」ということであった。
こんな素朴な疑問を抱くなんてどうかしていると笑われるかも知れない。金は究極においては使うためにあるものときまっているからである。
実は私も「金は使うためにあるもの」と思っているのだが、もしそうだとしたら、「使うためにあるもの」を人はどうして使わないで貯めておくのであろうか。これに対して常識的に考えられる理由は、第一に、人間には病気だとか天変地異だとか人災天災などの不慮の災難があって、こうした時に備えなければならないこと。第二に、人間はやがて年をとりいつまでも若い時のように働くことができなくなるだけので、老後に備える必要があること。第三に、家族の扶養について今のところは、とにかく個人が責任を持たなければならないこと、などがあるが、では今日の社会保障政策が目指しているように、これらの心配が全く皆無とまでは行かなくても次第に解消されて行くとすれば、人々の貯蓄欲もそれにつれて減退して行くであろうか。
こう考えてみると、話はむしろ逆であって、生活に余裕がなく不安が伴う社会ほど(または個人ほど)、貯蓄に対する関心がうすく、その反対の社会(または個人)ほど貯蓄に熱心なことがわかる。してみると、貯蓄とは将来の不安に備えるものではなくて、むしろ金そのものに対する執着、あるいは金をふゆしていこうとする熱情によって支えられているというよりほかない。これは「金は力なり」によって代表される金権を背景にしてはじめてなり立つ行為であること言をまたない。
かくて最初は生活の手段として追求された金が、いつの間にか権力の手段にすりかえられ、「使われるもの」としての面が忘れられて、「人をしばるもの」としての猛威をふるい出す。ところがうまくしたもので、人をしばるための縄をなっている当人がまずその縄にしばられるのが金と人との関係で、生命をすりへらして金をためるということ自体、矛盾した行為なのである。
むろん私は一代で巨億の富を築いた立志伝中の人や、爪に火をともして小金を貯めた金貸し婆さんが、素寒貧のくせに金持のことを悪しざまにいう貧乏人よりも人間的にくだらないとは思っていない。けれども金銭は、雪だるまの如くころがせばころがすほど大きくなっていく半面、少なければ少ないほど霧散して消えてしまうので、そのまま放任しておくと、どこかに偏在してしまい、いったい金は何のためにあり、そして、また誰のためにあるのか、というわかりきった質問を提出せざろう得なくなるのである。

金が偏在すること自体は、リンゴが熟すると地上におちるのと同じぐらい必然的な現象であるが、ただ社会全体から見ると、二つの罪悪を犯していることになる。一つは、本来使われなければならないものを使わないで貯蓄する結果、一方に使いたくても使えないものが存在しているのに、もう一方には使う手段を持っているのに使わないものが存在し、そのために経済の発展が阻害されることである。もう一つは、人間は本来、均等なる機会を与えらるべきなのに、金持の子弟はスタートから有利な条件を与えられ、貧乏人の子弟は不利な環境を克服していかなければならないことである。
この二つの罪悪の故に、人間の営利行為そのものまで否定する考え方が出てくるが、しかし、それは角を矯[た]めて牛を殺す結果になりかねない。今日の社会政策は医者が患者の治療をする時に心臓に疾患があれば心臓の疾患をなおそうと努めるように、だいたい、この矛盾をいかに除去するかという方向に向けられている。累進課税や義務教育制度や育英制度などは、いずれもこの線の上に沿った政策ということができよう。
けれども金そのものの存在を許している限り、社会制度がいかように変革されようとも、金は金の法則に従って動く。はじめは「民衆のため」という純粋な動機から出発しても、権力のあるところに金は集中していく。金は人間を堕落させる威力を持っているから、よほど立派な人格を持った人でない限り、一度、自家用車に乗り、議事堂の赤い絨毯をふめば、二度とそこからすべりおちまいとしてもがく。従って社会制度は当然そうした人間の弱点を勘定に入れて作られるべきであって、高潔な人格に期待しては危い。しかし、仮にそうした社会制度を作っても、人間は悪知恵をしぼって自ら作った網をくぐりぬけようとするから、どんないい制度を作っても完璧を期することはできない。かくて金はまたいつの間にか少数者の手に握られるようになる。
が、ただ一つ、いかなる権力者でもまたいかなる大富豪でも、永遠に金を握っていることはできない。何故ならば、人間は必ず死ぬものであり、しかも金を持ってあの世に行くことはできないからである。
かつてに自らの手(?)で神をつくった。そして、自らつくった神に自らをしばりつけることによって生きてきた。今日では神を信ずる者は次第に少なくなり、人々はその代りに金を信じている。金もまた人間が自らの手でつくったものであるが、その金に文字通り金しばりにされて生きている。もし死というものがなくて、金で人間の生命がひきのばされるものなら、人間の世の中ぐらい不合理なものはないだろう。が、幸いにして、金持も貧乏人も(たとえ神の前では平等ではないにしても)死の前では平等なのである。
そこで死に直前すれば、人は何か考えるところがあるに違いない。それが直ちに人生観の変化という大げさな現われ方をしないにしても、金銭に対する見方が、とかく見失われがちなものから本来のものへと戻って行くのではあるまいか。
人間は自分の計算によって行動する。けれどもどんなに巧みな計算でも、天の計算には及ばない。中国の俗言にこういうのがある。「リコウな者はバカを食う。バカは天を食う」と。金がいくら猛威をふるっても、天は人の生きる道を塞[ふさ]ぐものではないと私は思っている。