1/2「変な音 - 夏目漱石」岩波文庫 日本近代随筆選1 から

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1/2「変な音 - 夏目漱石岩波文庫 日本近代随筆選1 から
 


うとうとしたと思ううちに目が覚た。すると、隣の室[へや]で妙な音がする。始めは何の音とも又何処から来るとも判然[はっきり]した見当が付かなかったが、聞いているうちに、段々耳の中へ纏[まと]まった観念が出来てきた。何でも山葵卸[わさびおろ]しで大根かなにかを擦っているに違ない。自分は確に左様[そう]だと思った。夫[それ]にしても今頃何の必要があって、隣りの室で大根卸を拵[こしら]えているのだか想像が付かない。
いい忘れたが此処[ここ]は病院である。賄[まかない]は遥か半町[はんちょう]も離れた二階下の台所に行かなければ一人もいない。病室では炊事割烹は無論菓子さえ禁じられている。況[ま]して時ならぬ今時分何しに大根卸を拵えよう。是[これ]は屹度[きっと]別の音が大根卸の様に自分に聞こえるのに極[きま]っていると、すぐ心の裡[うち]で覚ったようなものの、偖[さて]それなら果して何処から何[ど]うして出るのだろうと考えると矢ッ張分らない。
自分は分らないなりにして、もう少し意味のある事に自分の頭を使おうと試みた。けれども一度耳に付いたこの不思議な音は、それが続いて自分の鼓膜な訴える限り、妙に神経に崇って、何うしても忘れる訳に行かなかった。あたりは森[しん]として静かである。この棟に不自由な身を託した患者は申し合せた様に黙っている。寝ているのか、考えているのか話をするものは一人もない。廊下を歩く看護婦の上草履[うわぞうり]の音さえ聞えない。その中にこのごしごしと物を擦り減らす様な異な響丈[ひびきだけ]が気になった。
自分の室はもと特等として二間つづきに作られたのを病院の都合で一つ宛[ずつ]に分けたものだから、火鉢などの置いてある副室の方は、普通の壁が隣の境になっているが、寝床の敷いてある六畳の方になると、東側に六尺の袋戸棚があって、その傍[わき]が芭蕉布の襖ですぐ隣へ往来[ゆきかよい]できるようになっている。この一枚の仕切をがらりと開けさえすれば、隣室で何を為[し]ているのかは容易[たやす]く分るけれども、他人に対して夫[それ]程の無礼を敢てする程大事な音でないのは無論である。折から暑さに向う時節であったから縁側は常に明け放した儘であった。縁側は固[もと]より棟一杯細長く続いている。けれども患者が縁端[えんばた]へ出て互を見透[みとお]す不都合を避けるため、わざと二部屋毎[ごと]に開き戸を設けて御互[おたがい]の関とした。夫は板の上へ細い桟[さん]を十文字に渡した洒落たもので、小使が毎朝拭掃除をするときには、下から鍵を持って来て、一々この戸を開けて行くのが例になっていた。自分は立って敷居の上に立った。かの音はこの妻戸の後から出る様である。戸の下は二寸程空[す]いていたが其処[そこ]には何も見えなかった。
この音はその後もよく繰返された。ある時は五、六分続いて自分の聴神経を刺激する事もあったし、又ある時はその半[なかば]にも至らないでぱたりやんで仕舞う折もあった。けれどもその何であるかは、ついに知る機会なく過ぎた。病人は静かな男であったが、折々夜半[よなか]に看護婦を小さい声で起していた。看護婦が又殊勝な女で小さい声で一度か二度呼ばれると快よい優しい「はい」と云う受け答えをして、すぐ起きた。そして患者の為に何かしている様子であった。
ある日回診の番が隣へ廻てきたとき、何時[いつ]もより大分手間が掛ると思っていると、やがて低い話し声が聞え出した。それが二、三人で持ち合って中々捗取[はかどら]ないような湿り気を帯びていた。やがて医者の声で、どうせ、そう急には御癒[おなお]りにはなりますまいからと云った言葉丈[だけ]が判然[はっきり]聞えた。夫から二、三日して、かの患者の室にこそこそ出入[ではい]りする人の気色がしたが、いずれも己れの活動する立居を病人に遠慮する様に、ひそやかに振舞っていたと思ったら、病人自身も影の如く何時の間にか何処かへ行って仕舞った。そうしてその後へはすぐ翌[あく]る日から新しい患者が入って、入口の柱に白く名前を書いた黒塗の札が懸易[かけか]えられた。例のごしごし云う妙な音はとうとう見極わめる事が出来ないうちに病人は退院して仕舞ったのである。そのうち自分も退院した。そうして、彼[か]の音に対する好奇の念は夫[それ]ぎり消えてしまった。