「人情小説の条件 - 出久根達郎」文春文庫 朝茶と一冊 から

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「人情小説の条件 - 出久根達郎」文春文庫 朝茶と一冊 から

映画俳優や、舞台芸人さんの死亡記事を新聞で見た場合、後者の方が、私にはショックが大きい。
ああ、あの姿をもう見ることができないのだな、あの声を聞けないのだな、と思う。
俳優の場合は、ビデオで見られる。しかし、たとえば落語家の場合、ビデオが出ていることは出ているが、ほんの数えるばかり。この人のこの話が聞きたい、と願っても、肝心のその話がビデオをなっていない。聞きたくとも聞けない、見たくとも見られぬ。というわけは、そういうことである。
春風亭柳朝、をこ存じだろうか。
決して昔の人ではないのに、ほら、名前は知っていても、顔や姿が、よく思いだせない。まして高座での芸を紹介しようにも、どういう風に説明したらよいか、迷う。芸人さんの芸は俳優と違い、生[なま]で見せる芸なのである。ビデオに収録されている芸は、本物でない。
私は十代のころ、熱心な落語ファンであった。友人が明治大学落語研究会のメンバーであり、春風亭柳昇師匠の台本を書いていたせいで、感化されたのである。
林家三平の全盛期であった。私はどちらかというと、三平落語には批判的であった。文楽志ん生の芸が正統で、三平のそれは邪道であると、若いから生意気で、うわっ面しか見ない。ところが池袋演芸場で、なまの三平を聞いたとたん、ころっと評価が変った。それまで私はテレビとラジオでしか聞いていなかったのである。
声が違う。三平の、なまの声は、張りがあって艶があって、よく響き、実に心地よい。落語は、なまで聞かなければだめだ、と覚[さと]った。三平に限らず、志ん生文楽も、やはり、そうであった。演者の息遣いが、ストレートに聞き手に伝わってくる。活字で読むのと、肉筆原稿で読むのとでは、微妙に味が違う。それと同じかも知れない。いや、落語の場合は微妙どころではなく、格段に差がある。
柳朝の話、だった。柳朝は平成三年二月七日に亡くなった。六十二歳とまだ若い。
かつて志ん朝、談志、円楽と共に、四天王の一人と歌われた。
けんかっ早くて、気っぷが良くて、飲む打つ買うの三拍子にあけくれ、しかし芸のセンスは抜群と評された。きっすいの江戸っ子ではあったが、古風な江戸っ子らしい生きのよいタンカが切れる、貴重な落語家と人気があった。
その柳朝の一代記が、吉川潮著『江戸前の男』(新潮社)。
柳朝の出囃子「さつまさ」のリズムで、小説が始まる。
私は、小説といった。小説なのである。いや、著者や版元の思惑は知らぬ。副題が「春風亭柳朝一代記」とあるから、実録ものかもわからない。そのつもりかも知れない。
しかし出来あがりは、小説である。実録ものの感動ではない、小説の感動がある。
文体からして、そうだ。出囃子のリズムで物語が始まると言った。そういう計算が、されている。そして柳朝が高座の如く、ほとんど枕らしい話もなく、小説はいきなり本題に入る。
展開がいい。完全に、古典落語、それも人情ばなしの、長講一席である。
泣かせて、笑わせる。笑わせて、泣かせる。このくり返し。私は久しぶりに小説で、涙を流し、大声で笑った。笑わせる小説は多いが、泣かせる小説は少ない。ひと口に人を泣かせるというが、この技術は大変にむずかしい。
軽薄な人間には絶対にできぬ。苦労人だからといって、成功するわけでもない。もらい泣きするような人は、案外に少ないものである。
悪人が、一人も登場しない。現実は善人ばかりということはない。善人なんているかいないか、だろう。だからこの一点だけでも、本書は小説といえる。
よく出来た人情小説である。主人公の柳朝は、むろん面白い。破天荒な落語家だから、当然である。師匠から何度も破門を申し渡される。生きてはいけないと悲観し、柳朝は遺書を書く。
「長々お世話になりました。私は駒形橋から隅田川に身を投げて死にます。探さないで下さい」
師匠(林家正蔵。晩年にこの名を海老名家に返上し、林家彦六と改名)は柳朝を呼びだし、苦虫かみつぶした顔で言う。
「こんど死のうと思った時は黙って死んでおくれ。遺書に場所まで書くこたあない」
柳朝をとりまく人物も、それぞれ癖があって楽しい方ばかり。柳朝の芸を認めた色さんこと、のちの作家、色川武大も登場する。青白い顔をしたバクチ打ちの若者として、まず登場する。
柳朝の愛弟子の小朝も活躍する。周辺の人物が面白いからこの小説が面白いのではない。人物が皆楽しそうに生きているから、読んでいて楽しいのである。人を蹴落してやろう、と考える人間が一人もいないから、安心して読めるのである。
落語が、実はそういう世界なのだ。笑わせて泣かせる。理屈はいらない。ああ、いい話を聞いた。満足する。それが落語であり、上質の芸というものだ。この世が汚く醜いものであればあるほど、落語の世界は私たち大衆のユートピアである。だから大衆に愛され、支持された。今でもそれは変らないはずだが、ユートピアに描いて見せる手腕を持つ演者が、めっきり寂しくなった。笑わせるだけの、芸人はたくさんいる。笑わせて泣かせる者となると、数えるほどだろう。
客もそこまで要求していない。第一、落語をユートピアととらえる聞き手がいなくなった。芸の質は問わない。ただひたすら笑わせてくれさえすればよい、という風である。『江戸前の男』は、昔の落語の芸をしのばせてくれる。名人芸を聞くような感動がある。
柳朝の、おかみさんがいい。ヨリさん。働き者だが、気も強い。柳朝になぐられると、なぐり返す。
「今朝も飯の炊き方が気に入らないと(柳朝が)お膳をひっくり返したら、味噌汁の実のわかめが飛び出してヨリの足にくっ付いた。それが熱かったので足に張り付いて取れなくなった。ヨリが怒って、箒を持って掛かってきた」カカア天下の本場、群馬の女性である。負けてはいない。
ワカメが足に張り付く。このディテールのなまなましさ。この描写が、私は芸だと思うのである。夫婦げんかで膳をひっくり返すシーンは、だれも書く。味噌汁が椀がころがるくらいの描写はする。ワカメが畳に張りつくことは書いても、奥さんの足にくっついて、ワカメの形のまま火傷[やけど]する、までは演出できない。私は主人公より奥さんの良さが、とても自然に楽しくできているので、この人情小説は傑作になったと思う。言いかえると人情小説は、女性の描き方いかんで、良くもなり平凡にもなるようだ。