「教訓的な話 - 村上春樹」新潮文庫 村上朝日堂の逆襲 から

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「教訓的な話 - 村上春樹新潮文庫 村上朝日堂の逆襲 から

僕は教訓のある話というのが比較的好きである。といっても、これはなにも僕が教訓的な性格の人間であることを意味するわけではない。教訓というものの成り立ちがわりに好きだというだけの話である。
僕のつれあいの姉は学生時代に堀辰雄の『風立ちぬ』を読んで、「健康というのは大切なものだと思いました」という読書感想文を書いて先生に大笑いされたということだが - 僕もそれを聞いてたしかに思わず笑ってしまったけれど - これは笑う方が間違っている。もし彼女が『風立ちぬ』を読んで健康の重要性を痛感できたのだとしたら、これは間違いなく文学の力である。笑ってはいけない。そういう立場に立ってもう一度『風立ちぬ』を読みかえしてみれば、必ず「う-ん」とうならされるところが何ヵ所かあるはずである。教訓というものはある場合には類型に堕してしまうことはあるが、またある場合には別の意味での類型を突き崩してしまう力を有することもあるのである。
僕のところにもときどき読者から小説の感想を書いた手紙が来るのだが、「村上さんの小説の感性は - 」とか「こういう言葉の使い方は - 」とか「これを読んだ気分は - 」とかいったものが多く、「私は村上さんの小説を読んでこういう教訓を得ました」というようなのは一通もない。みんながみんなそうである必要はないけれど、一通くらいあってもいいんじゃないかと思う。「私は村上さんの小説を読んで、病弱な母をもっといたわらねばならないと思いました」とか「私は村上さんの小説を読んでお金が全てではないと悟りました」とかね。まあ無理かもしれないけれど。
教訓というものは一般に考えられているように決して硬直したものではない。どんなものにも必ず教訓はあるし、それは一律に同じ形をしたものではない。雨ふりにも教訓はあるし、隣の家の駐車場にとまっているカローラ・スプリンターにも教訓はある。べつにあえて探し求める必要もないけれど、あればあったでそれなりになかなか楽しいものである。
昔、学生時代に学校で『徒然草』を読まされたとき、先生は「現代の目から見れば作者の説教臭・教訓臭がいささか鼻につく」というようなことを言って、そのときは「なるほど、そういうものか」と思ったものだけれど、今になってみればその教訓的な部分だけがしっかりと頭に残っているから奇妙なものである。『徒然草』に限らず他の文学作品をとってみても、流麗な文章や緻密な心理描写というのはそのときは感心しても時が経つばすっかり忘れてしまい、瑣末[さまつ]かもしれないがとにかく有効的という種類のことだけ部分的に覚えているということが多々ある。そういうのが良いことなのかどうかはわからないけれど、少なくとも何も覚えていないよりはましであろうと僕は思う。

昔ある編集者に面白い話を聞かされた。これはかなり教訓的な話なのだけれど、あまりにも教訓が多すぎるので、僕はいまだに整理しきれずにいる。ケース・スタディ-としてここに再現してみたい。

〈ケース・スタディ-〉・某編集者の話
僕はジャズが好きなもので、ある前衛ジャズ・ミュージシャンの演奏をテープにとったものを仕事のついでに○○さん(注・高名なジャズ評論家)のところへ持っていって、聴かせたんです。○○さんはすごくそれを気に入ってくれて「うん、君、これは良いよ。最高だよ」って言ってくれました。そこまではいいんです。ところがふと気がつくと僕はそのテープ(注・オープン・リール)をダブル・スピードでかけていたんです。それで「ちょっとまずいかな」と思ったけど、「すみません、スピードを間違えました」と言って始めからかけなおしたんです。だって不正確なものをそのままにしておけませんからね。すると先生が怒っちゃいましてね、「君は僕を馬鹿にしてるのか!」って、これですよ。あの人も大きなこと言うわりに器量が小さいね。

この話にははじめにも述べだように数多くの教訓が含まれているので、僕なりにみつけた教訓を箇条書きにしつみる。受験を控えている方は正しいと思われるものに○印をつけて下さい。
①前衛ジャズなんて好きなスピードで聴けばいいのだ。
②なんだって自分が良いと思えばそれで良いのだ。
③正確な評論などというものは存在しない。
④「ちょっとまずいかな」と思っても、もう一度よく考えるべきだ。
⑤べつに不正確だっていいじゃないか。
⑥失敗は笑ってごまかすのがいちばん。
⑦器量の大きな人はあまりしゃべらない。
⑧編集者は直接相手に悪口は言わないものだ。
⑨やたら何かを賞[ほ]めると、あとがつらい。

と書きあげてみると、こんな短い話からも学ぶべきことが多々あることがよくわかる。他にもまだ僕がみつけられずにいる教訓があるかもしれないので、お気づきの方は教えて下さい。『徒然草』ならこのあとにどんな教訓がつくのだろうと考えるだけでもかなり暇が潰せそうである。