1/3「活字の中の落語家たち - 江國滋」旺文社文庫 落語美学 から

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1/3「活字の中の落語家たち - 江國滋旺文社文庫 落語美学 から

「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものぢゃない。何時でも聞けると思ふから安っぽい感じがして甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合わせである。今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ」(夏目漱石三四郎」)
帝大生佐々木與次郎の口をかりて、漱石はこういって三代目小さんを礼讚している。これがそのまま漱石自身の感想であるかどうかは別として、天才といわれた芸術家と讃えられたことは小さんの名誉であり、文豪の名作の中に記念碑を建ててもらったようなものである。
小さんの記念碑は多い。
「小さんの独演会の広告や辻ビラを見ると、どんな繰り合わせしても聴きに行った。(略)席がはねてから外に出て、いつも一緒に行った同学の太宰施門君とそこいらで麦酒を飲む。どつちが云ひ出したか覚えないが、小さんが死んだらお葬式に行かう、きつと行かう、それぢや約束しようと云ふやうな事を云つた。それは云ふまでもなく、小さんに対する感激のとばしりなのである。(略)それから大凡二十年たつて、小さんが死んだ。その当時私は法政大学の航空研究会長として学生の羅馬飛行を企劃し、その用事で非常に忙しかつた時間をさいて、たしか会議に集まつてゐる人々を待たせしたまま、内緒で抜けて、神田立花亭の小さんの告別式に行つた(内田百ケン『小さんの葬式』)
ほかの人ならともかく、人生の達人、入道・百鬼園先生の言葉なのだから、三代目小さん、もって瞑すべきであろう。この随筆の中に小さんの高座姿の描写がある。
「小さんはいつも黒紋附に袴をつけ、きちんと高座に坐つて、殆ど身動きもせず、又餘り手真似等もしない話し振りなので、多くは両手をちやんと膝の上に置いた儘、落ちついた調子でゆつくりと話を進めた」
三代目小さんを知らないぼくにも、この高座姿は何故か懐かしい。考えてみると、これはそっくりそのまま現五代目の小さんの姿だった。そういえば、三代目小さんの風体、芸風、品格は四代目をとびこして五代目に引き継がれているというのが定評である。
「僕が足しげく寄席に通ったのは高等学校時代だった。明治三十八年から四十一年頃まで、本郷の若竹で、柳派の落語を聞くのが楽しみの一つで、当時の小さん、馬楽、馬生の落語に耳を傾けたものである。今でも馬楽『長屋の花見』や小さんの『そこつ長屋』は忘れられる思い出として、折々昔を思い出しては独り微笑をもらすほどである。特に馬楽の飄々乎とした芭蕉の枯葉のような風貌や、誰に語るともなき呑気な独り言のような話し振りにはいつも感心した。小さんの話の悪かろう筈がない。僕の聴いたはなしかでは、何といっても小さんと馬楽が両横綱である。この二人を抜く名人にはその後お目にかからない」(辰野隆『話すひとびと』)
名人小さんは昭和五年、七十二歳で没している。馬楽は、弥太っ平馬楽、気違い馬楽といわれた三代目蝶花楼馬楽。明治末吹き込みのレコード『長屋ね花見』を聴くと、なるほど「飄々乎とした」高座である。この馬楽は、大正三年、四十九歳で狂って死んだ。

かかる日のいづれ来らむ身なるべし
馬楽狂はば狂ふまにまに

気のふれし落語家[はなしか]ひとりありにけり
命死ぬまで酒飲みにけり

(吉井勇『芸人』・『馬楽追想』)

漱石が小さんを高く評価したのとはまた別な意味で、歌人は狂馬楽を愛して、多くの句を詠んだほか『俳諧亭句楽』『狂芸人』など一連の戯曲も書いた。