2/3「活字の中の落語家たち - 江國滋」旺文社文庫 落語美学 から

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2/3「活字の中の落語家たち - 江國滋旺文社文庫 落語美学 から

小さん、馬楽の味わいは、現代のわれわれにも何となく想像ができるような気がする。わからないのは円喬である。
「円喬は名人だったと思う。志賀直哉さんも、一生の間に感心した芸人が七人いると言って一人一人数え上げられたが、その中に落語家で円喬、役者で団蔵と松助とがいた。私も一生のうちに、あんなうまい話術家を聞いたことがない。(略)私はこの人の『累ケ淵』や『塩原多助』『鰍沢』『業平文治』などを聞き得たことを一生のしあわせだと思っている」(小島政二郎『場末風流』)
小島先生におめにかかるたびに、先生が円喬のうまさを理解させようと、ヤッキになって説明しつ下さることは、前項(「円朝管見」)ですでに述べた。申訳ないことだが、理屈の上ではわかっても、ぼくには実感としてもう一つピンとこない。現在、円喬のレコードも一枚残っているのだが、実は、それがかえって理解の妨げになっている。ザーザーという針音の向こうからカン高い声がおそろしい早口で伝わってくるそのレコードからは、どうしても円喬の偉大さがわからない。そんなぼくをみると、先生はきまって「かわいそうだなあ」といわれる。軽蔑でもからかいでもない、真実情のこもったその「かわいそうだなあ」の一と言に、ぼくは円喬のうまさをチラとかいま見るのである。
現在活躍している大真打たちも、口をそろえて円喬のうまさを讃えている。
「円喬さんはうまかったね。『鰍沢』なんてえのは天下一品だったね。楽屋で聞いていて、柱に頭ぶつけて目エまわしたこともあるくらいで......」
志ん生談である。その名人をいまは亡き辰野先生は『話すひとびと』(前掲)の中で酷評しておられる。
「僕は生来、義太夫や人情噺が大嫌いなので、円喬や円右の話が、いつも気に食わなかった。彼らの所謂芸の細かさ、話しぶり、身ぶり、悉くマニエリスムから一歩も出でず、その上、妙に名人振った態度や顔つきにいつも胸が悪くなるのだった。孤客アルセストを怒らせるような芸当は、凡そ僕には用がないのである」
劃の正しい、純粋なものを愛するという辰野先生の一生を貫く見識がにじみ出た言葉である。だが、この痛烈な批評も、裏返せば円喬のうまさを伝える証明書にほかなるまい。芸の巧拙と、好悪とはおのずと別ものである。
「小島さんが円喬くらい巧い落語家はないというのに対して、巧い落語家ではあるが気障だというのが、久保田(万太郎)先生の意見である。“鰍沢”のような噺が巧かったというだけでも、円喬がいかに気障だったかということがわかると同時に、“鰍沢”のような噺が巧かったというだけで、とんなに巧い落語家だったかということもよくわかる。聞いてもいなかった円喬をどうこういえないが、恐らく、ぼくが聞く機会を持ったら、ぼくにとって円喬という落語家は、始終好きになったり嫌いになったりしていた落語家ではあるまいか」(安藤鶴夫『まわり舞台』)
円喬を好きといい、嫌いという、そのいずれもが円喬のうまさを認めた上での評価である。円喬は大正元年、四十九歳の若さで病没している。もし、六十七十までなからえていたらどんなことになっていただろう。これこそ想像もつかない。