「糟糠の妻 - 駒田信二」文春文庫 中国故事はなしの話 から

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「糟糠の妻 - 駒田信二」文春文庫 中国故事はなしの話 から

「糟糠の妻」の「糟」とは、米のかす。「糠」とは、ぬかのこと。「糟糠」とは米のかすやぬかのような粗末な食べ物のこと。「糟糠の妻」とは、そういう粗末な物を分けあって艱難をともにしてきた妻という意で、この言葉の出典は『後漢書』の宋弘伝である。
宋弘は後漢光武帝(在位二五-五七)に仕えて、重厚正直[せいちよく]を以て知られた人で、建武二年(二六)には大司空(宰相)に任ぜられた。
同じ年に、光武帝の姉の湖陽公主が未亡人になった。光武帝は暇をみては姉をなぐさめていたが、あるとき、いっしょに朝臣たちのうわさをしながら、姉が誰に対して好意を持っているかをさぐってみたところ、湖陽公主は宋弘をほめて、
「宋弘の威容徳器は、群臣たちの及ぶところではありません」
といった。そこで光武帝は、
「わかりました。なんとかとりはからいましょう」
と約束した。
その後、光武帝は宋弘を召し出し、衝立[ついたて]のうしろへ湖陽公主を坐らせておいて、宋弘との問答をきかせることにした。光武帝はされげなく宋弘にたずねた。
「諺[ことわざ]に、貴[たつと]くしては交わりを易[か]え、富みては妻を易う、というが、それが人情というものだろうな」
すると宋弘はすかさずいった。
「いいえ、わたくしは、貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さず、ということを聞いております」
光武帝は衝立の方をふり向いて、湖陽公主にいった。
「うまくいきませんなあ」

〈帝、主(公主)をして屏風[へいふう]の後に坐せしめ、因[よ]って弘に謂いて曰く、「諺に言う、貴くしては交りを易え、富みては妻を易うと。人情ならんか」と。弘曰く、貧賤の交りは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さずと」。帝顧[かえり]みて主に謂いて曰く、「事諧[かな]わず」と。〉

「堂より下さず」とは、家から出さない。大切にして見捨てるようなことはしない、という意である。