1/3「寺じまの記 - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上) から

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1/3「寺じまの記 - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上) から

雷門といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなり建てられないのだという。門のない門の前を、吾妻橋の方へ少し行くと、左側の路端[みちばた]に乗合自動車の駐[とま]る知らせの棒が立っている。浅草郵便局の前で、細い横町への曲角で、人の込合う中でもその最も烈しく込合うところである。
ここに亀戸[かめいど]、押上[おしあげ]、玉の井、堀切、鐘ヶ淵、四木[よつぎ]から新宿[にいじゆく]、金町[かなまち]などへ行く乗合自動車が駐る。
暫く立って見ていると、玉の井へ行く車には二種あるらしい。一は市営乗合自動車、一は京成[けいせい]乗合自動車と、各[おのおの]その車の横腹に書いてある。市営の車は藍色、京成は黄いろく塗ってある。案内の女車掌も各一人ずつ、腕にしるしを付けて、路端に立ち、雷門の方から車が来るたびたびその行く方角をきいろい声で知らせている。
或夜、まだ暮れてから間もない時分であった。わたくしは案内の女に教えられて、黄色に塗った京成乗合自動車に乗った。路端の混雑から考えて、とても腰はかけられまいと思いの外、乗客は七、八人にも至らぬ中、車はもう動いている。
活動見物の帰りかとも思われる娘が二人に角帽の学生が一人。白い雨外套を着た職人風の男が一人、絣[かす]りの着流しに八字髯を生しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾風の大丸髷[おおまるまげ]に寄席芸人とも見える角袖コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた襟付の袷に半纏[はんてん]を重ねた遣手婆[やりてばば]のようなのが一人 - いずれにしても赤坂麹町あたりの電車には、あまり見掛けない人物である。
車は吾妻橋をわたって、広い新道路を、向嶋[むこうじま]行の電車と前後して北へ曲り、源森橋をわたる。両側とも商店が並んでいるが、源森川を渡った事から考えて、わたくしはむかしなら小梅あたりを行くのだろうと思っている中[うち]、車掌が次は須崎町[すさきまち]、お降りは御在ませんかといった。降りる人も、乗る人もない。車は電車通から急に左に曲り、すぐまた右に折れると、町の光景は一変して、両側ともに料理屋待合茶屋の並んだ薄暗い一本道である。下駄の音と、女の声が聞える。
車掌が弘福寺前[こうふくじまえ]と呼んだ時、妾風の大丸髷とコートの男とが連立って降りた。わたくしは新築さられた弘福禅寺の堂宇を見ようとしたが、外は暗く、唯低い樹の茂りが見えるばかり。やがて公園の入口らしい処へ駐って、車は川の見える堤へ上[のぼ]った。堤はどの辺かと思う時、車掌が大倉別邸前といったので、長命寺[ちようみようじ]はとうに過ぎて、むかしならば須崎村[すさきむら]の柳畠[やなぎばたけ]を見おろすあたりであることがわかった。しかし柳畠にはもう別荘らしい門構もなく、また堤には一本の桜もない。両側に立ち続く小家[こいえ]は、堤の上に板橋をかけわたし、日満食堂などと書いた納簾[のれん]を翻しているのもある。人家の灯で案外明いが、人通りはない。
車は小松嶋[こまつしま]という停留場につく。雨外套の職工が降りて車の中は、いよいよ広くなった。次に停車した地蔵阪[じぞうざか]というなは、むかし百花園や入金[いりきん]へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処で、路端[みちばた]に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな幟が紅白幾流[いくなが]れともなく立っている。淫祠[いんし]の興隆は時勢の力もこれを阻止することが出来ないと見える。
行手の右側に神社の屋根が樹木の間に見え、左側には真暗な水面を燈火の動き走っているのが見え出したので、車掌の知らせを待たずして、白髯橋[しらひげばし]のたもとに来たことがわかる。橋袂[はしだもと]から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方向へは曲らず、堤を下りて迂曲する狭い道を取った。狭い道は薄暗く、平屋建[ひらやだて]の小家が立並ぶ間を絶えず曲っているが、しかし燈火は行くに従って次第に多く、家もまた二階建てとなり、表付[おもてつき]だけセメントづくりに見せかけた商店が増え、行手の空にはネオンサインの輝きさえ見えるようになった。
わたくしはふと大正二、三年のころ、初て木造の白髯橋ができて、橋銭[はしせん]を取っていた時分のことを思返した。隅田川と中川との間にひろがっていた水田隴畝[すいでんろうほ]が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。しかし玉の井という町の名は、まだ耳にしなかった。それは大正八、九年のころ、浅草公園の北側をかぎっていた深い溝が埋められ、道路取ひろげの工事と共に、その辺の艶[なまめか]しい家が取払われた時からであろう。当時凌雲閣の近処には依然としてそういう小家がなお数知れず残っていたが、震災の火に焼かれてその跡を絶つに及び、ここに玉の井の名が俄に言囃[いいはや]されるようになった。
女車掌が突然、「次は局前、郵便局前。」というのに驚いて、あたりを見ると、右に灰色した大きな建物、左に『大菩薩峠』の幟を翻す活動小屋が立っていて、煌々[こうこう]と灯をかがやかす両側の商店から、ラヂオと蓄音機の歌が聞える。
商店の中で、シャツ、エプロンを吊した雑貨店、煎餅屋、おもちゃ屋、下駄屋。その中でも殊に灯[あかり]のあかるいせいでもあるか、薬屋の店が幾軒もあるように思われた。
忽[たちま]ち電車線路の踏切があって、それを越すと、車掌が「劇場前」と呼ぶので、わたくしは燈火や彩旗[さいき]の見える片方を見返ると、絵看板の間に向嶋劇場という金文字が輝いていて、これもやはり活動小屋であった。二、三人残っていた乗客はここで皆降りてしまって、その代り、汚い包をかかえた田舎者らしい四十前後の女が二人乗った。
車はオーライスとよぶ女車掌の声と共に、動き出したかと思う間もなく、また駐って、「玉の井車庫前」と呼びながら、車掌はわたくしに目で知らせてくれた。わたくしは初め行先を聞かれて、賃銭を払う時、玉の井の一番賑な処でおろしてくれるように、人前を憚[はばか]らず頼んで置いたのである。