「遠く仰いで来た大詩人 - 川端康成」岩波文庫 荷風追想 から

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「遠く仰いで来た大詩人 - 川端康成岩波文庫 荷風追想 から

「テレビで亡骸を見たときの、あのチイズクラッカアを思い浮べますと、涙がとめどなくこみ上げてまいります。」と、関根歌さんが書いているのを今読んで、荷風氏の「亡骸」はテレビにもうつされたのかと、私はまたあの「亡骸」の写真を思い出した。夜なかにひとりで死んでいた荷風氏の写真は、一つの新聞と一つの週刊グラフとで私は見ている。四月三十日のある夕刊に、荷風氏の死の部屋の乱雑貧陋の写真をながめていると、そのなかにうつぶせの死骸もあるのにやがて気づいて、私はぎょっとした。いいようのない思いに打たれた。しかし、このようなありさまの死骸の写真まで新聞紙にかかげるのは、人間を傷つけること、ひど過ぎる。週刊グラフの写真は新聞よりも大きく明らかであった。この写真によって逆に荷風氏が世を冷笑しているとは無理にも感じ取れなかった。哀愁の極まりない写真であった。この写真の時の荷風氏はなんの抵抗も拒否も逃背もの力を持っていない。生きている人間ではなく、死骸であって、もはや人間というものではないかもしれないと思うと、私はこの写真の印象からややのがれることができた。岸首相が鳩山前首相のくやみに行った時も、鳩山氏の死顔がテレビ・ニュウスにうつった。これはすでに弔問客にたいして整えられた姿であったが、私はやはり不気味な悪感がした。 - 関根歌さんの「チイズクラッカア」と言うのは、荷風氏が死の部屋のテレビ写真に、それの散らばっているのが目についたらしいのである。
その死によって荷風氏を週刊誌が競って好餌としたのは、荷風氏の生前もっとも忌みおそれることのように書いていたにしても、今日ではむしろ当然まぬがれぬところだろうし、私も好事で読み散らしたものを、昨日茶の間から拾い出してみると、八種の週刊誌があった。私は特に買い集めたわけではないから、まだまだあるだろう。荷風氏の風変りを興味にしがちな、これら週刊誌の記事のうちにも、敬意をふくめたものがなくはない。私自身をかえりみても、昭和二十年十一月九日(「罹災日録」による)、中山義秀氏と二人で、熱海の大島五叟子氏方へ訪ねて、初めて荷風氏にお会いすることができ、同月十四日には私一人で行き、その後、市川のお宅へも二、三度うかがい、また幸田露伴氏の葬式の日に市川の氷水屋で見かけたりした、その折り折りの印象は忘れられないので、いつか書いておきたいと思っていたが、私はただ鎌倉文庫という出版社の、まあ使いとして行っただけだから、格別の話もなかったので、私など弱輩にたいする荷風氏の折り目正しい応待に感じ入ったほかには、荷風氏の着ているものだとか、栄養失調らしく顔がひどくむくんでいた病床の(荷風氏は起き出て床を二つに折り、正座して話されたが)ありさまだとかにおどろき打たれた、そんな印象に過ぎないのである。しかし、少年のころから遠く仰いで来たこの大詩人に、とにかく会ってもらえたよろこびは今も残っている。鎌倉文庫の出版や原稿の依頼などという用事がなければ、私が荷風氏を訪ねるはずもなかった。
週刊誌の多彩(?)な荷風記事のうちで最も私をとらえたのは、荷風氏が死の前日まで、日記をつけつづけたということであった。「昭和乙亥三十四年正月」からの分は「断腸亭日乗第四十三巻、荷風散人年八十一」と巻首にあるが、小学生が使う粗末なノオトだそうで、その日記の写真を見るとペンも粗末らしい。大正六年「歳卅九」の九月から、日本紙に美しい毛筆書きで続けられて来たものが、いつの年から粗末になったのか。記事も近年は簡単無味になっていたらしく、殊に最後の今年などは正月から、ただ天気模様と「正午浅草」とだけ書いた日が多く、それが二月の日々も同じで、三月一日は「正午浅草、病魔歩行殆困難」、驚いて車で帰って病臥十日ほどの後には、「正午、大黒屋食事」が「正午浅草」にかわってくりかえされる。大黒屋とは荷風氏の家に近い食堂で、胃潰瘍吐血死の前日にも、荷風氏はやはりそこでいつもと同じにカツどんを食べたという。そして、死の前の日の日記は天候を書いただけだという。日記のほかには遺稿がなかったそうで、死ぬまで日記だけは書き通した荷風氏であったが、この粗末なノオトとペンの、同一記事のくりかえし日記は、荷風氏の亡骸の写真のように、あわれの底知れぬ思いをさせられる。老残の詩人が死を待つしるしのようにも見える。

(ここまでにします。)