「わがアンチ・グルメの弁 - 林望」ちくま文庫 あさめし・ひるめし・ばんめし-アンチ・グルメ読本- から

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「わがアンチ・グルメの弁 - 林望ちくま文庫 あさめし・ひるめし・ばんめし-アンチ・グルメ読本- から
 
だいたいが、テレビなどに掃いて捨てるほど出てくる括弧付きの「グルメ」というのが嫌である。そこでは、とっておきの逸品やら絶品やら、箸で切れる柔らかい牛肉やら、鬱陶しく山盛りになったウニ・イクラの丼やら、それも、どうみたって良いものを喰って育ったとも思えぬ連中が、わあわあと言って騒いで見せる。かくも軽佻浮薄、埒[らち]もない食い物話が横行しているのは、ほとほとうんざりというものてある。
そこへまた、ミシュランだとやらの、とんだお節介の評価本などが、このウソ寒い風潮に拍車をかける。
私は、ミシュランの星なんぞがついた料理屋には、頼まれたって行くのはごめんである。無体に高い金を払って、有象無象が分かったふうな顔をしてわんわんと押し掛けている。それで二年先まで予約はいっぱいだのなんだの、二年先の予約をして寿司など喰いにいって何がおもしろかろう。寿司なんてものは、「お、きょうはちょっと一つつまみたいな」と思ったら、その時が吉日で、すっと入って、さっと食べて、すぐに帰る、そういう気味合いで行きたいものだ。たがら、そういう旨い馴染みの寿司屋を何軒か、いつも懐にあっためておいて、それは親しい人にしか教えない、というのがほんとうだ。テレビの奴らなんぞに教えてたまるものか。
だいたい、ほんとうに旨いものを喰おうと思えば、法外な金など出してはいけないのである。いつだったか、一人前十万円などという天をも恐れぬ金子[きんす]を取るという料理屋に、無理矢理に連れていかれたことがあるけれど、なんだこんな程度のもので十万円も取るのかと、はなはだ不愉快であった。それでありがたそうに金箔をはりつけた黒豆を二粒だの、サイコロを一回り大きくした程度のトロの刺し身を一切れだの、およそ腹の足しにもならないようなものを、ほんのちょぴっとずつ喰わせて、得意の鼻をうごめかされたのではたまらない。
どだい、そんなものを喰わされてありがたがっているという心根が卑しいじゃないか。もっとまじめに、一生懸命に、食事というのは食べるべきものである。
いや、そもそも、人の金で物を喰おうという了見がいけない。社用族の跳梁跋扈[ちょうりょうばっこ]なんてのは、精神風土の貧困を物語る現象である。
すべて自分の財布で、喰うなら喰おうじゃないか。
そうしていやしくも自分の財布で喰うとしたら、たかが晩飯一回に一人十万円なんて金を払うのは、法外も法外、十万円どころか、三万円でもごめんを被る。
人間の智慧というものは、いくつかの階級があって、一番下等のひ弱なる智慧は、本などで読んだ知識の受け売りというやつである。どこそこのナニガシという店のしかじかというの物は旨いとか、そんなことを書いてあるガイド本などを読みかじって出かけていくというのが、もっともいけない。ミシュランもこの口である。
味というものは、その人の好尚や、体調、また育った地方とか、さまざまのものが複合して「これは旨い」と感じさせるのである。川越育ちの甲君には旨いと思えるものでも、先斗町育ちの乙嬢にはペッペッという味であるかもしれない。それでも、はたして先斗町が正しく、川越が間違った味覚かといえば、むろんそんなわけはない。味というものは常に相対的なものなので、一杯三百円のかけそばが、十万円のお懐石より旨いと感じたって、何の不都合めないのだ。
次に下等なのは、人づてに聞くという方法で得た智慧である。これを耳学問というのだが、しょせんは聞きかじりだし、その得意になって教えてくれた人が旨いと思ったとしても、教えられたこちらが旨いと感じる保証はないこと、今申すとおりである。
で、最上の智慧というものは、しょせん「試行錯誤」によってしか得られない。これは世の真理である。各人よろしく試行錯誤を繰り返して、自分にとっての「旨いもの」を発見すべく、それしか決定的に旨いものにたどり着く方途はないものと知るべきである。
これはなにも食味のみに限った原理ではなくて、よろずの生活智において然り、学問的真理探究においても然り、ブッキッシュな知識や、人づての聞きかじりってのは、しょせん借り智慧にほかならぬ。
しかしながら、人生は短い。時間は有限である。金だって無尽蔵にあるわけではない。なにごとも効率良く結果を得たいと思うのは道理であるけれど、いやいやそうは問屋が卸さないのである。
無限に存在する諸現象を、あまねく知ろうとしたところで、人生はあまりに儚[はかな]い。一人の人間の為しうることは九牛の一毛、おのずからほんの僅かのことに過ぎぬ。
まずはそう悟道するところから始めなくてはならぬ。
そうして、その朝顔の露のように儚い有限の人生を以て、無限の現実に立ち向かおうとするのは、蟷螂[とうろう]の斧にも似た無謀なる挙だけれど、いや、それが人生というものの実相にほかならぬ。だから、ほんのわずかのことを知り得て、ほんの数軒の名品を舌頭にし得たならば、以て暝[めい]すべきところであろう。
そんなことをすればずいぶんと無駄が出るであろうと心配してくれる人もある。
然り、無駄は夥[おびただ]しい。およその打率で言えば、見知らぬ店に十軒入ったとして、まずと思えるのが一軒か二軒、とびきり良いなあと、裏を返したく思う店は百軒に一つあれば良い。すると、大半は「失敗であった」と思うのだが、いやなに、人生は失敗の膨大なる集積にほかならぬ。長嶋茂雄イチローのように、そうポンポンとヒットが出るものではない。
しかし、その残余の「失敗」こそ人生の味わいで、世の中に「旨いもの噺」はたくさんあるけれど、まあいわゆるグルメ談のごときを聴かされるのは、あまり愉快ではない。けれども、こんな不味いものを喰ってしまった、という失敗談ともなると、これは十人が十人とも喜んで聴いてくれる。そこに食味談の精髄があると言ってもあながち過言ではあるまい。
そこで私は、夥しい試行錯誤の結果として、不味い店くだらない味の話ならいくらでも嚢中にあるゆえ、「東京不味いもの百選」なる本でも書いて進ぜようかと、編集者に提案してみたこともあるが、そういうものを書くと当該の店から名誉棄損で訴えられる虞があるので決して実現する気遣いはない。呵呵。
かくて、「解説に代えて」と題したものの、なんの解説にもなっていないのだが、しかし、この本のなかには、いずれ劣らぬ味の偏屈人たちが、堂々の論陣を張って甲論乙駁しておるのは、たしかに一奇観とするに足るであろう。じっさいの詳しい解説は、すでに大河内昭爾氏の「選者解説」という佳品が備わっているので、この上贅言を弄するには及ばぬ。
私の務めはただ、こうして世の中のグルメなどというものが如何に胡乱[うろん]なるものであるかを縷々[るる]演舌すれば足るというものである。それゆえ、私は迷うことがない。なんのガイド本も見ず、誰にも聞かず、ただひたすら自らの足と目と舌とを以て試行錯誤する。