2/2「退屈こそ人生最大の楽しみである - 池田清彦」新潮文庫 他人と深く関わらずに生きるには から

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2/2「退屈こそ人生最大の楽しみである - 池田清彦新潮文庫 他人と深く関わらずに生きるには から

マイナーな楽しみでも、人づき合いが不可欠なものもある。たとえば、性的な関係というのは、その中身について当事者以外の介入を受けることはないという意味で、マイナーな楽しみに違いない。しかし、楽しみの基準を自分だけの嗜好に合わせるだけではうまくいかないのはもちろんであって、楽しむためにはかなり高度なコミュニケーションの技術が要る。そのことはすでに述べた(「女(男)とどうつき合うか」の項参照)。だから、性的な関係を持つのが苦痛な人は、そんなものとは無縁に生きても別に問題はないのである。
人はなぜ楽しみを求めるのだろう。恐らくそれは退屈だからだ。朝から晩まで働いて、やっと食物にありつくような生活をしていれば、食うことと寝ることだけが楽しみのすべてとなり、それ以外の楽しみを考えつかないだろう。文明が発達し、市場経済が主流となり、多くの人々特に都会の人々は、かなりの余暇とお金を得た。何もしないのは退屈だから、何か楽しいことをして遊ぼうということになったのだ。
しかし、現代人の遊びには(現代人に限らず昔の人もさして変わらなかったかもしれないが)、どこか労働によって刷り込まれた価値観が反映しているように思えてならない。ヒトが野生動物であった昔から、延々と続いているであろう食と性の楽しみは別として、それ以外の遊びは、どれも何ほどかの目標とか目的とかリスクとかいったものから自由ではないみたいだ。
ゲームには勝つという目的がある。努力して勝ったときの爽快感は、商売が成功した時の疑似体験であろう。なかなか成功しない商売のストレスを晴らすためにやっているのかもしれない。スキーとかマリンスポーツには習熟していく楽しみと同時に、スリルとリスクが伴う。これも商売(労働)の疑似体験であろう。旅行やもつとシビアな遠征とか冒険とかにも目的を達成するという喜びがある。退屈をまぎらわすために、退屈とはもって非なるスリルとサスペンスと新奇性を求める。それが現代の遊びの要諦であろう。
それで楽しければ、それでよいのだけれど、スリルもサスペンスもやがてマンネリになり、どんなに新奇なものもいずれ陳腐になる。すなわち、それらはいずれ退屈の列に放り込まれてしまうのだ。この循環に巻き込まれれば、それを逃れる術はない。人々は更なる刺激を求めて、もっとエキサイティングな遊びに向かっていく。いずれ麻薬中毒にでもなるか、戦争でもおっぱじめなければ、収まりがつかなくなる。
そこで、こういう悪しき循環を断ち切るウルトラCを考えようというわけである。退屈そのものを楽しみに変えてはどうだろうか。退屈こそ人生最大の楽しみである。これは結構いけると思う。誰にも迷惑はかけないし、金も浪費することはないし、誰ともつき合う必要もない。遊びを労働の疑似体験ばかりに求めてきた頭を切り替えさえすればよいのだ。
たとえば、夜になって庭やベランダに出て満月をボーッと眺めてみる(満月が出なければ半月でもかまわない)。よく見ると月には様々な模様が見える。昔の人はウサギがもちつきをしていたという。ほうとため息をつきながら月を見ている。すると雲が月にかかって形を微妙に変えながら走り去っていくのが見える。二時間見ても三時間見てもあきない眺めだと思えれば、退屈は人生最大の楽しみになるだろう。
そんなこと楽しい訳がないだろうって思う人が、おそらく大部分だと思うが、それは実は訓練が足りないのである。スキーも水泳も最初は苦行であるが、ある程度以上の水準になれば、後は楽しくなるのと同様に、退屈も修行をすれば楽しくなると私は思う。私が自宅(八王子市高尾)で朝早く目が覚める(年寄りだから早起きなのだ)。夏であれば、四時過ぎにほんのり空が白み始めた所で、まずカラスが啼く。耳を澄ましていると、カラスは二羽か三羽いて、飛びながら啼いているらしい。しばらくすると、ヒグラシが一匹カナカナカナ(朝はキンキンキンとも聞こえる)と鳴く。それを合図にひとしきりヒグラシの大合唱になる。雀が啼き出し、新聞配達がやってくる。そういった自然の営みに耳をそば立てて、私もまた自然の中のささやかな一員であることを実感する。退屈とは何とぜいたくな楽しみであることか。
だまされたと思って、一度、ただひたすら退屈になって自然の声に耳を傾け、自然の営みを眺めてみよう。誰ともつき合わなくとも、お金がなくとも、人生最高のぜいたくを味わうことができるのである。試してみなければ損ではないか。