「餅を焼くこと - 永井龍男」ちくま文庫 あさめし・ひるめし・ばんめし から

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「餅を焼くこと - 永井龍男ちくま文庫 あさめし・ひるめし・ばんめし から

餅を焼いて食うのは、そもそも関東ののし餅というものが、うまくないからだと教えて呉れた人がいる。
出来合いの餅を一枚いくらで買ってくるような、下々[しもじも]の者が、さそくに腹をこしらえるために、手っ取り早く口に入れる方法として考え出したのが、焼くということになったのだとも教えて呉れた。その人の説にしたがうと、関東風の切り餅、つまり庖丁で切るということから、すでに風味を損ずるのだそうで、なんというのか関西風の丸い餅を食べつけたら、とても切り餅なぞは食えたものではないそうだ。
おそらく、その通りなのだろう。
子供の頃、知り合に印刷所があって、年末も押し詰ってから遊びに行くと、製本用の大きな裁断機で、端からのし餅を切っていた。住み込みの奉公人が多いので、とても庖丁なぞ使っていては間に合わないのである。
習慣というものは恐ろしいもので、私は焼かない餅はおいしくない。したがって、つきたての餅には一向無関心だ。少し上わ乾きしたのを、ちょっと焦がして食べる。
雑煮の時も、生のままの餅では一向おめでたい気がしない。つけ焼きは
大好物、鍋に入れる時もそうする。ちょっと焦がした餅の香が、私にはなんとも云えない風味である。
また、
「きのうだったかな、植木屋に豆大福のおやつを出したのは」
「いいえ、きのうは、おいなりさん」
「おとといなら、なお結構だが、あの大福の残りはないか」
「電話をすれば、すぐ届けて来ますけど」
「いや、おとといのが残っていれば食べる。取り寄せるならいらない」
そこで運よく、もし固くなった大福にお眼にかかれれば占めたものである。私はそれを餅網にのせて、たんねんに裏表から火を通し、プーッと湯気を吹いて、大福が噴火するまで待っている。
外側の餅は熱いが、中身のあんは冷たい時もある。
これを、口の中で噛み合わせる味は、上戸の私としても、他に比べる物がない位である。
もう一つ、餅で好きなのは耳餅である。
のし餅の端を切り落した、いわばヤレのような部分だが、これを一寸ほどに刻んで、かげ干しにしておく。
この頃は、もうそんな手のかかることは、やらない家の方が多かろうが、これを焼いて食べはじめると、私は止め度がなくなる。生乾きの時は、生乾きを焼いた独特の味があり、カラリと干上った時はまた、歯ごたえのある別の風味が生じる。のし餅の端は、人間の耳たぶに似ているので、耳餅と呼ぶのであろうか。のし餅の四方にしかそれのないことを、私は非常に口惜しく思っている。
寒に入って、なまこ餅を注文し、これをかき餅として貯える風習は、昔から東京の町中にもあったが、この耳餅と、お供餅を崩して焼いて食べる味には及ばない。
お供餅の、少し黴臭いのなぞもなんとなく鄙[ひな]びた感じで、私は好きである。
干割[ひわ]れのきたお供を、餅網にのせる。やがて中から湯気の吹き出てくる頃に、用意しておいた濡れ布巾にくるんで、さらに細かくむしり割って、餅網にのせ返す。すっかり火の通った処で生醤油に浸し、網の端で乾かして置いてから食べる。なかなか根気のいる仕事だが、うまさに釣られて苦にはならぬ。
子供の時分、私の母はよくこれをした。
夜業で帰りの晩くなる兄達を待ちながら、長火鉢の火をかき立てて、堅餅を気永がに焼くのである。
早く寝てしまった私は、この匂いでよく眼を醒した。起きて行くのは寒いし、なんとなくテレ臭くもあるので、エヘンとかアアアとか、意識表示をすると、やがて焼き上ったのを小皿にのせて枕もとへ持ってきてくれる。
床の中で、それをポリポリやった味が忘れられない。
それからもう一つ、堅餅を焼き上げてしまった後の、醤油の残りである。
これを湯呑みにうつして、熱い番茶を注ぎ込むと、えも云われぬ美味である。焼いた堅餅を浸すごとに、生醤油の味がつくらしく、どんな吸い物も及ばぬだしが出てくる。耳餅のコンガリ、芯までよく火の通ったのを、二つ三つそれに加えて番茶を注ぐこともある。
お袋は、気永がに焼き上げたものを半紙にのべ、長火鉢の引き出しへしまう。火鉢の落しの関係で、一晩そこへ入れておくと、翌日にはカラリと醤油が乾いていた。
子供の頃といえば、三角に切って売っていた豆餅を思い出す。駄菓子屋にも、駄餅菓子屋にも売っていたが、私の思い出すのは、大道に屋台店を出していた方である。
それも賑やかな場所ではなく、河岸っ端とか原っぱの、埃りっぽい処で、馬方とか車方が、骨休みに一服するような店である。
うす汚れのした縁台が屋台を囲み、屋台には油の利いた鉄板の上に、この豆餅がのっている。醤油のハケで、豆餅の裏表をひとはきしてから、紙にはさんで渡して呉れる。
私はよく、今の九段下辺りの堀へ釣りに行った。堀の魚をとることは、もちろん禁制で、憲兵や巡査に見つかったら、おおごとである。釣竿もバケツもおっぽり出して、命からがら逃げなければならないが、逃げおおせた橋のたもとなどに、こんな屋台店を張っていたものだ。
なるほど、こんなことを思い出していると、餅を焼いてたべるのは、関東育ちも下々の部に属すると思わぬでもないが、こういうゲテな味を知らない育ちの人も気の毒なものだと思う。
寒餅というと、寒に入ってからの水に切餅を浸し、黴を防ぐ貯え方もあったが、たいていはゴマや青海苔をまぜたなまこ餅を注文し、さっきも云ったようにかき餅にして保存し、時に応じて焼いて食べた。入梅時分まで残っていて、母が焼いてくれたものである。
そういうことも、もう東京ではやらぬようだが、この十年来私のある友人は、よく干し上げたこのかき餅を必ず鎌倉まで届けてくれる。そのお母さんが、毎年丹精するのだそうで、その一枚一枚揃った厚みと申し、カラリと干し上げて割れのないことと申し、まったく見事なもので、食べてしまうには惜しいような気がする。これをもらう度びに、世の中にはまだ、われわれの云う「お袋」という人が、健在なのだという悦びを感じる。