「〈生活〉といううすのろがいなければ(後半) - 穂村弘」光文社 現実入門 から

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「〈生活〉といううすのろがいなければ(後半) - 穂村弘」光文社 現実入門 から

私が生活とか人生とかいうものにもっとも近づいたのは、モデルルームをみに行ったあのときだった、と今にして思う。だが、私はそこから逃げ出した。そして元恋人が母親になって子育てを始めた頃、何冊かの本を書き、今も独身のまま、今夜は編集者の女性と婚約者同士という設定でモデルルームを取材に来ている。なんだか、とても遠いところへ来たように感じる。
前方にモデルルームの灯りがみえてくる。一瞬、ほっとして、でも、すぐに新たな不安に襲われる。靴を脱いであがらなくてはならないことに気づいたのだ。美しい部屋に、このぐじゅぐじゅの足であがるのはまずい。だが、あそこに入るなり、足がぐじゅぐじゅなので雑巾を貸してください、と云えるだろうか。そんな勇気はない。自分が本物の客ではないという負い目も関係しているかもしれない。本物ではないうえに足がぐじゅぐじゅだとばれたらどうなってしまうだろう。
部屋の灯りが近づいてくる。どうしよう。私はいつも曖昧な態度でいるうちに事態がなんとなくうまく収まってくれることを願っている。おそらくそれはぐじゅぐじゅの足で平然とあがるよりも、ずっと悪いことなのだ。足を縦にして、とっとっとっと変な歩き方(そんなことをしてもどうせ床は汚れるのだ)をして、願わくは誰にも気づかれませんように、とびくびくする。そんな生き方はいけない。とっとっとっとはいけない。今夜こそ、云うぞ、雑巾貸してください、と。
私たちは玄関に到着した。歓迎の声で迎えられる。「雑巾貸してください」と云うはずの私は無言で目の前のスリッパをみつめる。そうか、スリッパか。こいつの存在を忘れていた。ほっとしながら、無言で足を差し込む。ぐじゅっ、という感触。罪悪感。
私たちを案内してくれるのは百戦錬磨のやり手という印象の、お姉さんおばさんである。いちおう「旦那さん」である私に向かって、きびきびした口調で部屋の間取りや設備の素晴らしさを次々に説明してくれる。
だが、私のあたまに入ったのは五〇〇〇万円という値段だけだ。あとはまったく理解できない。いや、ベッドの存在だけが妙に気になる。ここに住んだらここでセックスするんだなあ、と思いながら、大きなベッドをみつめる。他に何も考えられない。
以前、恋人と来たときは、少なくとも、そこで生活するふたりを思い浮かべて怯えるだけの想像力があった。だが、今回は何もあたまに浮かばない。大丈夫なのか、自分。まともな暮らしというものからそんなにも遠ざかってしまったのだろうか。これでは取材にならない。
私がメモも取らずに、ベッドをみつめてぼーっとしているだけなので、みかねたサクマさんが鋭い質問をお姉さんおばさんに浴びせる。「犬は飼えますか」「裏が川ですけど、夏に蚊が出たりしませんか」。
こんな寒いのに「夏の蚊」のことを思いつくなんて凄い、と私は心から感心する。そうか、ここに住んだら夏もここに住むんだ。
だが、さすがに鍛えぬかれたお姉さんおばさんは「はい、三匹まで飼えます。ペットクラブもありますよ」とか「川は『流れてる』ことが重要なんです。この川はちゃんと『流れてる』川ですから臭いや虫の心配はいりません」とか即答する。どのような質問にも過去に何度も答えたことがあるという風情だ。さあ、他にないですか、どんどん訊いてごらんなさい、いつなんどき誰の挑戦でも受けますよ、というアントニオ猪木な瞳の輝き。
自分も何か云わなくてはとあせった私は「あの、これはダブルベッドですよね」と口走る。お姉さんおばさんは一瞬ひるんで「あ、はい」と短く応えたあと、全ての説明の矛先をサクマさんに向けるようになった。こいつは駄目だ、と瞬時に判断したのだろう。さすがである。
お姉さんおばさんとサクマさんの鋭いやりとりがさらに続く。そのなかに「バスルームのドアがガラス張りなのはどうしてですか」という問いかけがあった。私は漠然とエッチな理由を想像した。だが、答えは「同居されているお年寄りが倒れたりしたときに外からすぐにわかるようにです」だった。私は心のなかで、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、と叫んでいた。「現実の生活」というカタマりの重みに襲われて悲鳴をあげたのだった。
私はふらふらになってモデルルームをあとにした。その後、暖かいカフェに入って簡単な食事を摂っていると、少しずつ落ち着いた気持ちが戻ってくる。さっきまでお姉さんおばさんの前でおどおどしていた私は急に饒舌になり、あそこにあそこに住んだら夏もあそこに住むんだね、とか、僕たち本物の婚約者同士にみえたかな、とか、昔の恋人がお母さんになると取り残された気持ちになるんだよ、とか、エスプレッソもういっぱい飲んでもいい?とか口走る。
モデルルームで貰ってきたパンフレットを改めて眺めると、外国人の女性がパンを口にくわえたまま自転車に乗っている写真が表紙になっている。一瞬、妙な写真だな、と思ってから、すぐに納得する。「外国人の女性」が「パンを口にくわえたまま自転車に乗っている」というのは、つまり「生活感のない生活」を象徴しているのだろう。これがべたべたの生活写真では駄目なのだ。なんだ、俺だけじゃないじゃん、と思う。やはりみんな本物の生活のカタマりは怖ろしいのだ。弱虫。
家に帰ってから、古いカセットテープを引っ張り出してかけてみた。佐野元春のあの曲だ。

もう他人同士じゃないぜ
あなたと暮らしていたい
〈生活〉といううすのろを乗り越えて

(『情けない週末』より)

この歌、こんなエンディングだったんだ。初めて知ったよ。〈生活〉といううすのろを乗り越えて。でも、もう遅いんだ。何が。いや。何でもない。
雑誌の取材でモデルルームを見学に行くと云ったとき、一度でも物件をみに行くともの凄くしつこい勧誘攻勢があるぞ、と友人たちに脅かされた。だが、その後、私のところへは誰からも何の連絡もない。