1/3「敗荷落日 - 石川淳」岩波文庫 荷風追想 から

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1/3「敗荷落日 - 石川淳岩波文庫 荷風追想 から

一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身辺に書きちらしの反故[ほご]もとどめす、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷[ろうこう]の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。しかし、これがただの乞食坊主ではなくて、かくれもない詩文の家として、名あり財あり、はなはだ芸術的らしい錯覚の雲につつまれて来たところの、明治このかたの荷風散人の最期とすれば、その文学上の意味はどういうことになるか。
おもえば、「葛飾土産」までの荷風散人であった。戦後はただこの一篇、さすがに風雅なお亡びず、高興もっとよろこぶべし。しかし、それ以後は......何といおう、どうもいけない。荷風の生活の実状については、わたしはうわさばなしのほかにはなにも知らないが、その書くものはときに目にふれる。いや、そのまれに書くところの文章はわたしの目をそむけさせた。小説と称する愚劣な断片、座談速記なんぞにあらわれる無意味な饒舌、すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。書くものがダメ。文章の家にとって、うごきのとれぬキメ手である。どうしてこうなのか。荷風さんほどのひとが、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手のとどかぬうちに、どうすればこうまで力おとろえたのか。わたしは年少のむかし好んで荷風文学を読んだおぼえがあるので、その晩年の衰退をののしるにしのびない。すくなくとも、詩人の死の直後にそのキズをとがめることはわたしの趣味ではない。それにも係らず、わたしの口ぶりはおのずから苛烈のほうにかたむく。というのは、晩年の荷風において、わたしの目を打つものは、肉体の衰弱ではなくて、精神の脱落だからである。老荷風は曠野の哲人のように脈絡の無いことばを発したのではなかった。言行に脈絡があることはある。ただ、そのことがじつに小市民の痴愚であった。
葛飾土産」以後、晩年の荷風には随筆のすさびは見あたらぬようである。もともと、随筆こそ荷風文学の骨法ではなかったか。ただし、エセエという散文様式を精神の乗物としたところの西欧の発明とは、もとからおもむきがちがう。荷風の随筆は紅毛舶載の流儀に依るものと考えるよりも、やっぱり前代の江戸随筆の筋を引くこと多きに居るものと見たほうが妥当だろう。一般に、随筆の家には欠くべからざる基本的条件が二つある。一は本を読むという習性ががあること、また一は食うにこまらぬという保証をもっていることである。本のはなしを書かなくても、根柢に書巻をひそめないような随筆はあさはかなものと踏みたおしてよい。また貧苦に迫ったやつが書く随筆はどうも料簡がオシャレでない。その例。奇妙なことに、荷風のしきりに珍重する為永春水が書いた随筆のごときは、あきらかにその無学と貧窮とのゆえをもって、目もあてられぬ泥くさいものになっている。すなわち、和朝ぶりの随筆といえども、右の二つの基本的条件によって支えられているかぎりでは、ともかくそこに精神上の位置のエネルギーを保つことをえたのだろう。むかしは、荷風は集書の癖あり、またちとの家産を恃[たの]んでもいたようだから、まさに随筆家たるに適していたとおもわれる。