2/2「女子高生制服ウォッチング - 森伸之」ちくま文庫 路上観察学入門 から

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2/2「女子高生制服ウォッチング - 森伸之ちくま文庫 路上観察学入門 から

そこで最初の問題 ー 「女子高生は鳥類なのか昆虫なのか」に話を戻してみたい。
鳥類と昆虫を観察する際、最も大きな違いとなるのは「距離」ではないかと思う。たとえばバードウォッチングは、鳥の動きを遠くから双眼鏡などで眺めるというのが基本的なやり方である。ある一定の距離を観察者が縮めようとすれば、警戒心の強い鳥は飛び去ってしまう。
これに対して昆虫の観察は、多くの場合「採集」というかたちを通しておこなわれるから、距離的にはゼロに近い。ひとまず捕獲された昆虫は、研究目的によって飼育器に入れられるか、薬剤で殺されて標本になる。そして観察はルーペや顕微鏡が使用されるのである。
それでは、女子高生の制服を観察する場合はどうだったのだろうか。ここで、ぼくたちが制服観察に際して取り決めた二大原則を、もう一度確認してみよう。
①女子高生には話しかけない、触らない。
②写真はいっさい撮らない。
というものである。
まず原則その①。これはバードウォッチングの距離の取り方に極めて近いものである。種類がわからないからといって鳥に名前を尋ねることができないのと同様、ぼくたちも学校名を安易に聞き出すことはしなかった。学校案内に載っている校章、所在地、利用駅などの情報を頼りに対象の種類を割り出すという作業自体に高度なゲーム性を感じたからである。そしてもちろん触らない。場合によっては制服の素材やフィッティングの具合を確かめるために、直接触れてみるのも大切なこととは思うのだが、それが結果として制服の中身の形状を確認していると誤解されたりすると、面倒なことになる。電車の中などでこれをやれば、警戒心の強い女子高生は飛び去るかわりに騒ぎ出し、観察者は次の駅で交番に突き出されたりするかもしれない。痴漢と間違えられても、いったいどれ程の申しひらきができるだろうか。そんなわけで、女子高生を観察するときは、やはりある程度の距離を置くのが正しい方法と言えるのである。
次に原則その②について。写真を撮らないというこの方針は、最初から鉄則としてあったわけではない。気がついてみたら、自分の手でせっせと制服をスケッチする習慣が身についていたのである。まだ一冊の本にすることなど考えてもみなかった頃からのやり方が、本をつくるための共同作業になってからも続けられたのは、女子高生の制服をできる限り素早く描きとめるということが、やはりゲーム的な要求を強く含んでいたからだろう。
ところで当時、制服のスケッチに行くことを、ぼくたちは「制服採集」と呼んでいた。その頃はただ何となくそういうふうに言っていたのだが、制服の各パーツごとの形や色をとっさに紙片に描きつけていくときの心理は、今考えてみると捕虫網を振りまわして昆虫を採集するときの気分とそっくりである。ぼくたちは、女子高生そのものからは常に一定の距離を置きながら、同時に彼女たちが着ている制服に関する情報だけを素早く捕獲し、大事に家まで持ち帰っていた。
そして、一旦バラバラにされたそれらの情報は、自分の記憶や印象を接着剤として、イラストで再構成される。別の言い方をするなら、「採集」された制服の客観的な情報は、自分の記憶や印象という主観的な「防腐剤」を注入されることによって、「標本」としてケント紙の上に永久保存されるのである。こう考えてみると、制服のスケッチからイラスト完成までの意識のプロセスは、そのまま昆虫採集-標本作成という過程に当てはまっていることになる。
さて、女子高生は自分にとって「鳥類」なのか「昆虫」なのかという問題だった。結局、学校名を割り出したり、行動を観察したりという段階では、そのやり方はバードウォッチングに近いものであり、女子高生は「鳥類」として扱われる。そして、スケッチをもとにイラストをおこす段階は昆虫採集と標本作成にあたり、女子高生は「昆虫」として扱われる、ということになりそうだ。ぼくの意識の中で、女子高生は、ある時は鳥であり、ある時は虫であった。こんな言い方をすると、きっと怒る人もいると思うが、しかたがない。以前も都内の制服業者の組合が発行している新聞で、「女子高生の人格を一方的に無視して、昆虫や鳥になぞらえ、独断と偏見でウォッチングしている」といって、こっぴどくおこられたこともあった。でも、何ぶんこちらは「中身」じゃなくて「外身」を問題にしているわけだから、人格とかのハナシはひとまず置いといて下さいと言うしかない。
世の中には「制服を着ている女子高生」が好きな人もいれば、「女子高生が着ている制服」が好きな人もいるという、つまりそういう問題なのである。