4/4「榎[えのき]物語 - 永井荷風」岩波文庫

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4/4「榎[えのき]物語 - 永井荷風岩波文庫

しかしながらいかほど歎[なげ]き候ても、もともとわが身の手にて隠し候金子[きんす]。わが身の手にて取出す力なくなり候事なれば、誰も怨むにも及ばざる事に候間、月日を経[ふ]るに従ひ、これぞ正しく因果応報の戒[いましめ]なるべくやと、自然に観念致すように相なり申候。とにかくに半金の五拾両は面白可笑しく遣い棄て候事なれば、唯今の中[うち]諦めを付け申さず候ては、思ひもかけね禍[わざわい]を招ぐも知れずと、樹上の金子の事はきつぱり思切るやうにと心掛け申候。然[しか]る処またまた別の考いつともなく胸中に浮び来り申候。それは彼の金子今も果して樹上の穴に有之候哉[や]否や。愚僧の心付かぬ中[うち]盗み去りし者は無之候哉と、この事ばかり気にかかり候て、一応金の有無だけはしかと見定め置きたき心地致し候。次にはまた、もし彼の金子今以て別条無之においては、天下の通宝[つうほう]を無用に致し置く訳なれば、誰なりと取出し、勝手に遣へばよきものをといふ心にも相なり申候。但し軽々しく口外致すべき事には無御座[ござなく]候間これまたそのままに致し、唯ただ時節の来るを待ちをり申候処、或日の事、当村の庄屋殿より即刻代官所へ同道致されたき趣、使を以て申越され候間、直様[すぐさま]参り申候処、御役人御出[おいで]有之其許方[そのもとかた]に慶造[けいぞう]と申候寺男召使ひ候事有之候哉との御尋なり。御仰[おおおせ]の通り昨年冬頃まで召使ひ候旨御答申上候処、御役人申され候には、かの慶造事新宿板橋辺[へん]の女郎屋にて昨年来身分不相応の遊興致し候のみならず、あまつさへ大金所持致しをり候故、不審の廉[かど]を以て吟味致し候処、右慶造申立て候処によれば、慶造事盗み候金子は満行寺境内に有之候子育地蔵尊の賽銭ばかりにて、所持の大金は以前より満行寺門内の大木の穴に有之候ものの由にて、当夜慶造事地蔵尊の賽銭を盗み取りこれを隠し置かむと存じ、門内の榎に登り候処、何時[いつ]頃何者の隠し置き候もの歟[か]、幹の穴には五拾両の大金差込み有之候を、慶造図らず見付出し、寺方へはそれとなく暇を取り候趣[おもむき]申立て候得[そうらえ]どもなほ不審の廉[かど]少なからざるにつき、一応住職に聞ただし候上、江戸表へ送り申すべき手筈[てはず]なりとの事に御座候。愚僧は大[おおい]に驚き慶造の申開きにはいささかの偽りも無之旨[これなきむね]申述べたくは存じ候ものの、然[しか]らば樹上の五拾両は誰が隠し置き候哉と御詮議に相なり候ては大変なりと何事も申上げずそのまま立帰り申候。当村はその時分小普請組御支配綱島右京様御領分にて有之候間、寺男慶造は伝馬町御牢屋へ送られ、北の御奉行所御掛りにて、厳しく御吟味に相なり候処、慶造事十余年前麹町辺通行の折拾ひ候処隠場所にこまり当山満行寺へ住込み候を幸[さいわい]、大木へ上り隠し置き候旨申立て候由。勿論この儀は拷問の苦痛に堪へかね偽りの申立を致候事なれど、いづれに致せ、賽銭を盗み候儀は明白に御座候間、そのまま入牢と相きまり候処、十日ばかりにて牢内において病死致候。右の次第につき、五拾両の金子は慶造の遣ひ残り弐拾両余り有之候処、右は愚僧御呼出しの上落し人明白に相なり候時まで当山において、しかと御預り致すべき趣にて、そのまま御下げ渡しに相なり候。これにて愚僧が犯せる罪科の跡は自然立消えになり候事とて、ほつと一息付き候ものの、実はまんまとわが身の悪事を他人に塗付け候次第に候間、日数[ひかず]経[たち]候につれていよいよ寝覚あしく、遂に夜な夜な恐しき夢に襲はれ候やうに相なり候間、せめて罪滅しにと、慶造の墓のみならず、往年溜池にて絞殺し候浄光寺の所化得念が墓をも、立派に建て、厚く供養は致し候へども、両人が怨念なかなか退散致さざるものと見え、先年大木より滑り落ち候時の打身その年の秋より俄に烈しく相なり候上、引続き余病もいろいろ差加[さしくわ]はり、一日起きては三日ほど寝ると申すやうなる身体[からだ]になり果て候。この分にては到底元の身体には本復致すまじくやと覚束[おぼつか]なく存ぜられ申候。増して年も追々六十に迫り候老体の事に御座候へば、いづれにも致せ、余命のほどは最早や幾くも無之事と観念致をり候間、せめて今の中懺悔のあらまし認[したた]め置きたく右の通り書き続け申候也。なほ以て当山満行寺住職後継ぎの件につきては別紙に委細落ちなきやう認め置き申候。なほなほ愚僧実家の儀に付きては、往年三縁山[さんえんざん]学寮出奔この方[かた]、何十年音信[いんしん]不通に相なり候間、これまた別簡一封認め置申候也。以上。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。慶応 年 月 日。武州荏原郡荏原村。円光山満行寺住職釈良[しやくりよう]乗書。