「ある有料老人ホームの風景 - 山崎正和」ベスト・エッセイ2015 から

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「ある有料老人ホームの風景 - 山崎正和」ベスト・エッセイ2015 から

縁あって有料老人ホームというものに入居して、日常の半ば以上を過ごすようになって数年が経った。自宅から車で二〇分ほどの場所にあることも選んだ理由だが、たまたま旧友の谷沢永一氏が先に住んでいて、夫妻に誘われたことも縁になった。最初は別荘代わりに使って、週に数日の滞在を繰り返していたのだが、しだいに?惰に流れてホームで暮らす時間が増え、今では常住のかたちに近づいたのは、なにより私の老化の証拠だろう。
ここでは入居の資格を六五歳以上に限っているから、当然、身辺は高齢者社会を絵に描いたような光景を呈している。館内の図書室には入居者が寄贈した本もあって、そのなかに高橋和巳の著作がめだったりするのも、世代を物語っているようである。ときに大ホールの前を通ると、合唱サークルの会員たちが戦前、戦後の小学唱歌を歌っている。
もっとも、施設の構造の基本は集合住宅であって、私などは自室の書斎に籠もって他の入居者との接触はほとんどない。それでもレストランや喫茶ラウンジで遭うのは、職員を除けば老人ばかりであるから、朝な夕なにいやでも衰えの百態を見ることになる。
胸を張って颯爽と歩く人もいるが、杖に頼って背を丸める人もあり、歩行器にもたれて足を引きずる人もあれば、本格的に車椅子に座って動くほかない人もいる。しかもそのそれぞれの状態が安定しているわけではなく、暫く顔を見なかったと思うと、元気に歩いていた人が車椅子に乗って現れたりする。
そういえばこのホームの施設を見ても、一方に図書室やスポーツ・ジムや温水プールがあるかと思うと、一フロアの全体を占める病室があって、看護師と介護士認知症患者の世話もしている。それどころかここには葬儀のできる大小の部屋があって、現に私もその一室で催された谷沢氏の告別式に参列した。印象的なのは、葬儀に使える部屋の隣には麻雀室とビリヤード室があり、大ホールでは葬儀もできれば合唱の練習もできる。老人ホームでは死も日常の延長にあって、老いと衰えと死のすべてが可視化されているのである。
かといって、ここには悲運を共有しているといった悲壮感もなく、日常はじつに淡々と営まれている。女性が三分の二を超えるのはもちろんだが、単身男性の数も少なくなく、夫婦同居の割合はごく僅かである。ということは伴侶との死別を経験した入居者が過半数を占め、最大の不幸はすでに乗り越えた人が多いということだろう。そのうえ忘れてはならないのは、ホームに入る人は子や孫とも一定の距離を置き、末期の面倒をかけないという覚悟をかためているということである。
この選択をするには経済的な余裕が必要だから、その点では恵まれた人が多いともいえる。だがホームの使用権を買うには、その分だけ子孫に残す遺産は確実に減る。入居者は生きているかぎり住む権利はあるものの、所有権はないから部屋を死後の遺産とすることはできない。なかには自宅を売り払って入居料を捻出した人もあると聞いたが、そういう人の場合、遺産は皆無になるはずである。
いわばここを死に場所として選んだ人は、自分の人生を一代限りと思い切り、子や孫も平等な他人として遇することを決断してきたといえるだろう。そうした決断と覚悟をしてきた人が多いせいか、ホームの気風は全般に都市的でじめついたところが少ない。
ときにレストランで入居者の孫らしい若者の姿も見るが、彼らもそういう祖父母を暖かく理解しているように感じられる。家族を純粋な客として招いて食事を楽しんでいる老婦人の表情には、日本社会に新しい老人像が芽生えたのではないかと思わせるものがある。