「義経の梅干 - 水上勉」ちくま文庫 あさめし・ひるめし・ばんめし-アンチ・グルメ読本 から

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義経の梅干 - 水上勉ちくま文庫 あさめし・ひるめし・ばんめし-アンチ・グルメ読本 から

梅干について何か書けということだが、格別にいまこれといったことがあるわけではないので、心ひけるのであるけれど、むかし、大河内さんが、私の梅干に関する雑文をよんで、それを評価して下さったことがある。というのは「大正十三年の梅干」のことだった。私は京都の禅寺で九歳からコゾウ生活をおくったが、当時の和尚さまが、梅干漬けが上手で、子供の私もよく手伝わされ、毎年漬けた壺に日附を貼って、土蔵にしまう習慣だった。ケチン坊の和尚は、古い壺から順に小出ししてたべていたが、めったに小僧にはくれなかった。その和尚さまが亡くなられて、だいこくさんが、寺のこれも習慣で、寺を出される際に、片身にその梅干の壺を持ち出された。
その日附に大正十三年とあり、ちょうど、その年は、だいこくさんと和尚さまが結婚された年まわりで、だいこくさんには、思い出の梅干だったという。私は、十三歳でこの寺を脱走してしまっているので、もちろん、わずかな期間しか寺にいないから、記憶もさだかではないが、和尚さまは、毎年漬けた梅干を蔵っておられたゆえ、土蔵には何十という梅の壺がならんでいたそうだ。奥さまはその中から、結婚の年のを持ち出された。ほほえましい話だ。
眼をつぶると、股間に褌ををのぞかせた和尚が梅の木へよじのぼり、棒をふっている。その下で奥さまが赤襷をかけて、平べったい笊[ざる]でうけておられる。梅は寺の庭のそこらじゅうにあって、みな鈴なりに稔っていたものだ。
夫が先に亡くなり、遺族が片身に何かもらうということはきくけれど、梅干はめずらしかった。だが、禅寺では、梅干くらいしかもらうものがなかったともいえようか。何しろ抹香くさい寺のことである。和尚は俗人ではないから、衣類一つにしても白衣か黒衣か袈裟ぐらいしかない。また、そんなものは、寺の財産でもあるから、女がもち出せるものでもないのだった。ここでいま、女といってしまったが、禅宗の寺では、坊守制度というものはない。今日でも、独身を守る僧侶は多い。真宗は他力門だから坊守も寺にいて支障ないけれど、聖道門といわれる自力では、明治初年まできびしかった女犯の名残りはあり、大きな寺だと、いまだに入籍しないで、女性を寺に入れる習慣があるそうだ。内縁の女である。和尚の洗濯と食事と、夜の相手をつとめる。もし、和尚が先に死ねば、女は本山の命令で即日退去を命ぜられる。哀れな話であるが、私が小僧をつとめた頃のS本山の内情もそうで、晩年中風で足腰たたなくなられた管長さんのA老師などは、内縁の老婆が枕もとで、最期まで、その面倒をみ、弟子の雲水は隠寮へ近づけもしなかった由である。しかし、A老師が亡くなられるとその老婆も寺を出された。女性は、禅僧にとってただの性具だ、といった人がいるが、いくらかわかる気がする。
私の師匠は、その奥さまを入籍されていたが、物故後、奥さまが寺にいることを拒まれたのは、跡つぎの子がなかったからであった。師匠には娘が一人あっただけで、その娘さんも、母と一しゅょに寺を出されている。
大正十三年の梅干を見たのは、私とその娘さんが、奥さんの逝去後に、テレビで対面したときだった。娘さんの手土産の中にあった。私は感動した。奥さまの心がつたわり、師匠の心もつたわったからだ。
テレビでの対面はもう七、八年も前になるので、大正十三年から計算すると、その年まわりでも五十五、六年経っていた勘定だったが、実[み]はなかなかしっかりしていてタネも固く、肉もあった。ただ外見は、しわばんで塩がふき、ピンク色のレーズンみたいに見えたけれど。
私は、タッパアウェアの容器に入れて軽井沢の書斎にもち帰り、机上において仕事をしているあいだに、つまんで喰って、やがてなくなってしまった。にがい梅干だったけれど、舌にのせているうちに、甲州の巨峰ほどにふくれて甘くなった。そんな味についても、その随想文に書いた。
さいきん、私は、越後のK市にゆき、私の文章をよんでいた人にであった。その人はこういった。
「水上さん、私の家には、源義経が漬けた梅干がありますが、ごらんになりますか」
その人は教育界に職をもった人で、停年で退職されたあと町の役員をしておられた。そんな人がうそをいうはずがないと思ったが、源義経とは、ずいぶん大昔ではないか。じつは、この義経が漬けた梅干をぜひ賞味してくれ、という手紙をむかし私はべつの婦人からもらったこともあったので、そんな古い梅干が、まだ越後にあったかとびっくりしたのだ。
手紙の主はK市ではなかった。T郡下の山村からだった。しかし、その教育者あがりの人も、その婦人の山村もともに源義経安宅の関の難所をくぐりぬけて、弁慶とともにみちのくへ下った道中にあった。あって不思議はなかった。
「ずいぶん古いもんですね。たしかに義経が漬けたものでしょうか」
「ここは義経記の道中ですからね。義経は通っていますよ。弁慶も一しょの山伏姿の一行で......村へさしかかったころ、弁慶の発案でそれを少し、奥羽までもってゆこうということになったらしく、一行は、梅の木へのぼって鈴なりの梅をおとして、壺に漬けたが、その際、村人にも漬けたのこりを置いていったというんですな」
教育者あがりの人は、まるで見たことのようにいった。私はとにかく、そこへ見物にゆくことにした。市外の農家で、長屋門があり、白壁の土蔵が三つもある。豪農といってよい構えの家だった。その人は当主だった。私たちは奥座敷で待たされたが、当主は大きな鍵を音だてて裏の土蔵へ入ってゆくと、やがて茶いろい壺をもってきた。壺は、一尺ぐらいの丈で、茶壺のかたちをしている。肌はざらざらしていた。越前焼きだろうか、それとも立杭焼きか。よくわからないが、古いものだ。その口のところは、和紙を何枚もかぶせ、?紐でくくってあった。おもむろに、当主はその口をあけ、菓子皿に、中の一つを箸でつまんで出してくれた。ああッと思わず声が出た。ピンク色で、まるで、かわききったレーズンだ。しわには白い塩がふき、大きさはあずきの倍くらいしかない。
「大正十三年のと同じぐらいですな」
と私が思わずいうと、当主は不満そうに、
「うちのは、義経さんが漬けなさったのだから、あなたの文章よりは、もっと古いと思いますが」
といった。しかし、私たちはそんなものを見たのははじめてゆえ信じざるを得ない。すすめられるままに掌にのせて、口に入れた。ううんとうなった。にがい、にがい。すっぱい味ではない。とにかくにがい。わきにあった茶をくくんだ。義経の梅干は、しばらく舌の上でじっとさていたが、やがて、しだいにだんだん甘くなった。にがいものが逃げて、うす塩をまぶした巨峰になった。
これだけの話である。世の中には自分で漬けた梅干を自慢にする人は多いけれど、源義経の漬けたのを白壁土蔵にたくわえ、来客に一個づつ、惜しみながら饗応する人もめずらしいと思う。だが気持はわかる気がした。もうじき坂上田村麿が漬けた梅干が出てくるかもしれない。地方にはそういう変人がいて、古い梅干は、土蔵の奥の院で生きているようだ。それにしても私の和尚さまも、梅干は大事に土蔵に入れておられた。梅干好きの人はどうして、そんなところにしまうのだろう。妙な符合を感じる。